●近江八幡 2016年5月6日 その②
5月6日の朝、われわれは、時代劇のセットような近江八幡の掘割りを見たあと、20分ほど自転車をこいで水郷巡りの船乗り場に着いた。舟の発着所は、茅葺の大きな建屋で、まだ9時を少し回ったばかりのせいか、客らしき人が誰もおらず、閑散としている。
舟は7~8人ほど乗り込めるほどの大きさで、田船とは言えないほどもある。
「もうあとう2~3人お客さんが集まったら舟を出します」というので、われわれも船頭さんに混じって客待ちをすることにした。
近江八幡へ行ったら、水郷巡りをしようと思ったのは、もちろん司馬遼の「街道をゆく~近江散歩」に負うところがある。
「街道をゆく~近江散歩」より
<隣に住む婦人が旅の少し前に、「琵琶湖の内湖の一つ西の湖へ行き、水の中のよしを見てきた。
『舟よ』と、彼女はそのときの写真を見せてくれた。土地の老人が竿をもって、葦の原を分けている。彼女はその田舟のようなものに乗せてもらったのである。
(中略)・・近江路を歩いているとき、ふとそのことを思い出して、タクシーの運転手さんに場所を聞いてみた」>
司馬遼が近江散歩の取材に訪れたのは、1983年(昭和58年)の12月10日前後であるらしい。水郷巡りは、このころはまだ観光用としてさほど力を入れていないらしく、船頭さんも数名程度であったようだ。いまでは八幡掘りをはじめ、北ノ庄に2ヶ所ほど水郷巡りの乗り場がある。
司馬遼一行は、あらかじめ予約をしていたらしく、八幡掘りから船に乗った。
もっとも八幡掘りは、田舟の船着場というより、商人が積み荷を運ぶ発着所として整備されたもので、船は琵琶湖を北へ進んで敦賀湾を経て北国や北海道へ、そして南下して大津の港から京、奈良への運ぶ舟運の拠点として利用されてきた。
船着場で、客待をしていると、ほどなくして年配の夫婦が来たので、5人で出発することになった。
船頭さんは、あとで知ったのだが地元ではなく、大阪から車で1時間半かけて出勤してくるという。
退職してから、どうしても田舟の船頭になりたくて、素人ながらこの道に入ったらしい。
そう言えば何年か前、TV番組(「人生に楽園」)で、退職して船頭になった人が出ていたことを思い出して、そのことを言うと、「それ、私です」と意外なことを言う。
どうやらあのときの主人公が、偶然にもこの船頭さんらしい。「もと学校の教頭やってました・・・」と、付け加えた。
われわれが舟に乗り込んだ「北之庄沢」という場所は、八幡山(鶴翼山)の北東部に位置し、琵琶湖の内湖の一つ「西の湖」に繋がる 水郷地帯にある。広さは、東京ドームおよそ3,7個分(約17,5ha)あり、その規模は日本最大という。
舟は岸を離れ、葦の生い茂った用水路のような隘路を遡って行く。普段は水が澄んでいるらしいが、田植えの時期で、田の泥が流れ込んで濁っている。
むかしから蘆は、「あし」(悪し)に通じて縁起が悪いので、「葦」(よし)と呼ぶようになったと聞いたことがある。
われわれの船頭さんも、同じように「あし」と「よし」は同じ植物だというが、司馬遼が乗り合わせた船頭さんは、この辺りでは区別しているという。
「よしは、節と節の間が空になって軽いのですが、あしは(綿毛状のものが)詰まっています」。
したがってスダレにはよしを、茅葺やヨシズなどにはあしを使用するらしい。もちろん琵琶湖周辺は、あしの宝庫で、スダレ、ヨシズは近江の特産品の一つらしい。
近江商人が県外に売りさばいたのが、スダレや菅笠であったかもしれない。
よしの生えた水辺に鰻獲りの籠が置いてある。鰻もこの辺りの名物らしい。
田舟はしばらくの間、あしの生い茂った用水路を漕ぎ進んでいたが、やがて不意に視界が開けて、目の前に青く霞んだ山並が飛び込んできた。標高270mの鶴翼山(八幡山)らしい。
太閤の時代、この辺りに舟を浮かべて舟遊びをしたというが、その気持ちが分からないでもない。
春、田んぼや山がうっすらと青く色づき、岸辺に菜の花や桜が咲いていれば、さぞ華やかな「舟遊び」を楽しめたことだろう。
司馬遼の乗った船頭さんが、小さい頃は、「舟ゆき」と言って、庶民でも弁当持参でそんな田園の風情を楽しんでいたという。
水郷巡りの舟に乗るのは初めてだが、カヌーと違って、移りゆく田園風景を間近に観賞できるのがいい。
周囲の山は低く、近江ならではの、墨絵のような風景がどこまでも広がり、よしの草むらから「ケケケ」とのどかなヨシキリの声が聞こえてくる。しかも観はるかす景色の中に、コンクリートや電柱などの野暮な人工物がない。
それもそのはずで、実は北ノ庄を含む西の湖は、日本で第1号の「重要文化的景観」に選定され、北之庄町は、ラムサール条約登録湿地にも認定されているという。
われわれには、そんなお堅い肩書より、時代劇の「剣客商売」のロケ地と言った方がピント来るかもしれない。なん百年と時が止まったような風景である。
この風景は、まぎれもなく日本の原風景に違いないが、なぜか西洋の印象派の画家が描きそうな景色に見えて仕方がない。
われわれの舟は小一時間ほど、水田を巡り、元の船着場に着いた。
わずかに霧雨が降ってきたようだ。
舟から下りると、この景色が名残惜しく、今度は自転車に乗って、水郷を巡ってみようということになった。
水田に上がると、水郷の景色は一変し、われわれの舟が、よしが高々と生い茂る原を、まるで複雑な迷路を探して進んでいたかのような気持ちになってくる。
むかし北之庄では、農家の人が、田畑に行くのに田舟を使うだけでなく、田んぼを耕すための大きな牛や刈り取った稲を乗せるときにも使ったいたという。
この辺りは、日本有数の穀倉地帯であったともいう。
●五個荘へ
北ノ庄をほぼ半周し、近江八幡の駅前で自転車を返すと、昼近くなったので、昼食を摂りながら、次の目的地、五個荘へのアクセスを考えた。
鉄道好きのS氏の案を入れて、通常、五個荘へは東海道線の能登川駅からバスを使うのが便利なのだが、今回は100年以上の歴史を誇る老舗の近江鉄道に乗ってみようということになった。
途中八日市駅付近の雑貨屋で、初めて「琵琶湖よし」と書かれたヨシズを発見。
八日市の駅で乗り換えて、やっと五個荘駅に着。
しかしこのルートは、乗り換えやバス便など、予想以上に時間がかかって仕方がない。
実は五個荘駅に着き、本数の少ないバス待ちをしていたのだが、時間になってもバスが来る気配がない。そこで案内板をよく見ると、なんとバスは事前に予約しなければ来ないという。
しかたなく、小雨が降るなか、大雑把な地図を頼りに、迷いながら40分近く歩いてやっと目的地に着いた。
司馬遼がかつて、中毒のように近江を歩いていたころ、「神崎郡の田園の中で五個荘町という古い集落にまぎれ込んだことがある」と、『近江散歩』のなかで書いている。
続けて、「・・・・その村の字に、金堂という集落があるが、私がまぎれこんだのはその集落だった。歩くうちに、この田園の中で軒をよせあう集落ぜんぶが、舟板塀をめぐらし、白壁の土蔵をあちこちに配置して、途方もなく宏大な大屋敷ばかりであることに驚かされた」とある。
舟の底板を使った典型的な舟板塀
五個荘金堂町は、滋賀県中央部の湖東平野の田園地帯にある集落で、江戸中期から昭和にかけて、全国で活躍していた近江商人を多く輩出した集落の一つ。
成功した近江商人の多くは、江戸や京都等に店を持ちながらも、近江の本宅を本店として商売の拠点としたという。
そもそもひと口に近江商人といっても、土地柄によって、その呼び方や歴史、扱う商品にそれぞれ違いがあるそうだ。
近江八幡で生まれた八幡商人は、江戸初期にはすでの江戸、大阪、京に大型店舗を出すほどの活躍を見せ、日野荘から出た日野商人は、小規模の店を商い、もっぱら椀や薬を売り歩き、やがて全国にその販売網を拡大していったという。
そして五個荘商人は、これら先人に遅れて江戸中期以降に興った商人で、当初はさらしや編み笠などの雑貨を扱っていたという。
こうした近江商人に共通しているのは、地場の商品を各地で売り歩き、帰りはその地で商品を買って商うという、いわゆる「鋸(のこぎり)商法」という独自の商法を活用したことにあるらしい。
司馬遼は、「どの家も成金趣味がかけらもなく、どれもが数寄屋普請の正統をいちぶんもはずさず、しかもそれぞれ好もしい個性があった」と、手放してこの町の佇まいをほめている。
確かにこの集落に足を踏み入れた途端、司馬遼が見た風景とまったく同じものが眼の前にある。
これだけの大規模な町屋敷の家並みを保存しているにもかかわらず、観光地として旅人にこびへつらう気配が微塵もない。
小雨が降っているせいか、ほとんど行きかう住民や観光客らしき人影がない。もちろん、土産物店や派手な看板のたぐいも見掛けない。
全国に商圏を広げる近江商人は、江戸や関西にとどまらず、北国、東北、蝦夷、さらには朱印船貿易商として安南(ベトナム)やシャム(タイ)と交易する商人も現れたという。
こうした近江商人が、こんにちまでわれわれの日常生活に残したもの?の一つに、「させていただきます」という不思議な語法があると、司馬遼は言う。
「・・・日本語には、させていただきますという不思議な語法がある。この語法は上方から出た。近ごろ東京弁にも入り込んで標準語を混乱(?)させている。 『それでは帰らせていただきます』。『あすとりに来させて頂きます』・・・・この語法は、浄土真宗の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来--他力--によって生かしていただいている」(近江散歩」より)。
つまり熱心な真宗の信徒であった近江商人が、全国を歩きまわっているうちに、この他力本願の言いまわしである「させていただきます」という不思議な語法を広めていったというのだ。
司馬遼はこの集落を歩いているときに、不意に、作家外村繁の生家とおぼしき家に見つけたという。
現在は、外村繁文学館として一般に公開しているが、当時はまだふつうの民家であったらしく、表札を見て通りかかり人に聞いて、初めて分かったという。
司馬遼はそのとき見た家の佇まいをこう書いている。
「やはり明治の建築かと思えるが、ぬきん出て軽快で、清らかな色気をさえ感じさせた。ふと、女人高野と言われる室生寺をおもいだした。外村家の塀は世間の塀概念にくらべてひどくひくく、石垣もたおやかで、優しさが匂い立っていたが、さらにいえばに匂うことさえ遠慮しているふうだった」
外村繁文学館
外村の本家
その日われわれは、どこまで行っても、ひっそりと静まり返った五個荘の集落を歩き、夕方近くなってようやくバスに乗って、近江八幡のビジネスホテルに帰り着いた。
実に9日間におよぶ長い旅だったが、ようやく明日帰途に着く。
その夜、ホテル近くの居酒屋で、京都弁に似た近江言葉を聞きながら、地元の酒を楽しんだことは言うまでもない。
終わり
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