四国のカヌーの川下りは、あっけない幕切れとなったが、旅はまだ5日間も続く。
われわれは、那賀川をカヌーで下った翌日、鷲敷にある四国札所の太龍寺に登り、その後、徳島の海岸線を南下して日和佐海岸に1泊する。日和佐は、海亀の産卵する浜で有名なところ。
そして翌日、再び、香川県の高松に戻り、有名な栗林公園を散策して、空海誕生の地、善通寺に寄って多度津のT氏の家に再び泊まることになっている。四国では、ほぼ空海の足跡を辿ることになる。
その後、オジサン3人組は皆と別れて、帰路、滋賀県の近江八幡に2泊することになっている。
さて、われわれは5月3日、2日間泊まった太龍寺の麓の鷲敷いる。
太龍寺は、八十八か所の札所の中でも「遍路ころがし」といわれるほどの難所であったが、1992年に西日本最大のロープウエーが開通して容易に参拝できるようになった。
四国に限らず日本全国に空海(大師)ゆかりの寺や史跡が数多くあるが、そのほとんどは真偽が定かではない。誰にも分からないが故に、逆に、空海ゆかりの地と言っているにふしもある。
太龍寺は、そんな中にあって、空海自ら自著の中でその名を刻んでいる数少ない場所である。
空海は、奈良で真言の荒修業をしたのち、なぜかその地を離れ、生まれ故郷の四国に渡っている。いまだ真魚(まいお)と名乗っていた空海19歳(793年)の年であった。
空海が著した戯曲「三教指帰」という書物に、「阿波国大瀧獄に攀ぢ登り、 土州室戸崎に権念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」と記しているという。
この大瀧獄が、太龍寺のある山で、標高わずか600mそこそこの低山ながら、道が険しく、断崖絶壁のある修験場であったらしい。
「大瀧獄」と書かれた額
司馬遼太郎の小説「空海の風景」によれば、「(空海が)わざわざこの低い山の名を宝石のように大切にしていたことからみれば、かれはここで、『虚空蔵求聞持法』の困難な修法のいっさいを完全にやってのけたに相違なく、密教者として最初に踏み出した記念すべき行場であったかと思われる」と書いている。
一昨日、那賀川を遡行する際、水井の橋付近で、外人と日本人の巡礼者とすれ違ったが、、その日同じ宿舎でこの二人と一緒になったから、あのとき二人は、徒歩で太龍寺を目指していたに違いない。
その日われわれは、宿舎前のロープウエーを使わずに、山の反対側にある駐車場から、徒歩で太龍寺を目指すことにした。と言ってもわずか30分の山登りに過ぎないが・・。
舗装された道を20分ほど歩くと、古さびた山門があり、大きな金剛力士像が見下ろしている。この像は、鎌倉時代の作品で、徳島県では最古の仏像という。
鎌倉時代の金剛力士のある山門
寺は、延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願により堂塔が建立(その後焼失)され、空海が虚空蔵菩薩像などを安置したと言われている。
広い境内は、古来より、「西の高野」と呼ばれるように、本堂や太子堂、護摩堂、楼門など荘厳 な建物が多数建立されている。
空海は、この山の岩上で百日間、密教の秘法と言われる”虚空蔵求聞持法”を修し、その後、再び修行のため、室戸の海岸線を南下することになる。
われわれも、空海の足跡を辿るように、海岸線を南下して、日和佐、宍喰を目指すことにした。
しかし、雲は徐々に低く垂れ込め、風が波打ち際を容赦なくたたきつけるほど天候が荒れてきた。
宍喰の海岸
結局、その日は日和佐に引き返し、予約していた国民宿舎に泊まることになった。
司馬遼太郎は、「空海の風景」の中で、この日和佐の浜についてこんな描写をしている。
「日和佐の浦は、山と断崖にかこまれて、わずかに砂洲が広がっている。そのきわどい平地に、潮風にさらされた低い屋根の人家が密集し、目分量でざっと千戸ばかりかと思われた」。
空海が、この辺りを歩いたころは、当然千戸ほどの人家があろうはずはなく、「人里はこの日和佐まででしたやろうか」というほどに、辺境の地であっただろう。
●旅の7日目 高松~善通寺へ 2016年5月4日
翌朝、海浜は、昨夜の風速30メートルを越える風浪が嘘のように穏やかな顔に変貌し、海亀が産卵するという砂浜も本来の静けさを取り戻したようだ。
日和佐は、海亀の産卵する浜として有名だが、産卵時期は5月中旬から8月まででまだもう少し先の時期になる。・・といっても日和佐では、浜に上がって来る亀の数は激減し、多くても2匹程度らしい。
浜のそばに監視小屋があって、5人交代で産卵場所をマークする。ほっておくと、カラスなどに卵が盗まれてしまうらしい。
早朝、浜に出ると、漁師をしていたという老人が、「久しぶりに浜に出た」と言って、朝日に染まった海辺をぼんやりと眺めている。
以前、日和佐の港は、かなりの数の船で賑わっていたそうだが、「魚が獲れんようになった。ガソリン代にもならん」と、今では港に停泊する船は、わずか2艘だけになったという。

日和佐にも八十八ヶ所23番の札所薬王寺があり、宿に数組の巡礼者がいた。なかに大学生らしい2人組の女性がいて、自転車で遍路を続けているという。
「これから太龍寺を目指す」というが、順序からいえば反対回りになる。しかしこれは「逆打ち」と言って、うるう年に逆打ちをすると、ご利益が倍になるらしい。
その謂れは、四国巡礼をを20周以上していた衛門三郎という人物が、ようやくお大師(空海)に巡り会えたのが、うるう年の西暦832年であったことによるらしい。しかもその年はサル年で、今年が、まさにその縁起の良い年に当たるという。

われわれは、日和佐の札所に立ち寄ることも、宿舎に隣接する「海亀水族館」に立ち寄ることもなく、早々に高松に引き返すことになった。
ちなみに空海は日和佐から室戸岬までの道のり(60km)を、二十日間かけて歩き通したという。海岸線は切り立つ崖が続いているため、山中を釜と斧を携え道を拓いて行った。
実は、空海が悟りを開いたのは、まさに室戸岬にある洞窟の中であった。修業中の空海の口の中に、虚空蔵菩薩の化身である”明星”が飛び込んできたという。
そして、洞窟の中で空海が目にしていたのが空と海だけだったため、のちに「空海」と名乗ったと伝わっているそうだ。
部屋から見た日和佐海岸
日和佐を早朝発って、昼頃、高松の市内に入った。
はじめは、源平の戦いで有名な屋島に行く予定だったが、道が車で渋滞しているため、庭園として有名な栗林公園に向かうことになった。
栗林公園の起源は、16世紀末頃、地元豪族の別邸として築庭され、以後、代々高松松平家が100年の時を重ねて造営を続け、ついに江戸中期(1745年)、第5代藩主の時代に現在の庭園が完成したという。
庭は、紫雲山を借景として6つの池と13の築山を配し、面積は約75haの広大な敷地を持つ。さすがにその気宇壮大な規模は見応えがある。
次にわれわれが向かったのは、空海生誕の地と言われた善通寺。
T氏の家がある多度津とは、目と鼻の距離にある。
あまりに近かく、いつでも行けると思ったいたせいか、未だ訪れたことがない。
さすがに空海誕生の地というだけあって、その敷地は広大で、他の遍路寺と比べて本堂や五重塔などの伽藍の規模は壮大である。

香川県善通寺市にある善通寺は、こんにち空海の生まれた場所として有名だが、実は江戸時代までは隣町に当たる多度津の海岸寺が空海の本当の誕生寺とされていたらしい。
というのも、空海の母の実家が、海岸寺のそばに産屋を建て、そこで空海が生まれたことに由来するらしい。
この誕生寺を巡り、両寺の間で長いあいだ争いが続いたそうだが、1800年の初頭に海岸寺が敗訴し、以後、善通寺を「誕生寺」とし、海岸寺を「大師因縁の霊跡」とするとのことで和解が成立したという。
善通寺は、四国八十八か所の75番目の札所だが、海岸寺は四国八十八ヶ所霊場の番外札所となっている。
境内にひときわ大きな老木があり、近づいてみると、大師が生まれたときに繁茂していたというから、樹齢は1200年を超える老大木になる。
その日の旅の行程は、善通寺で終了となった。
帰路、海岸寺を過ぎたあたりで、瀬戸内に沈む夕陽を撮影する撮り鉄を見た。
彼にとって、夕陽を背景に走る予讃線の電車を撮るのは最高のロケーションに違いない。
いよいよ明日は帰宅組と別れ、オジサン組は近江八幡に向かうことになる。





