●伊予の小京都 大洲 2014年5月7日~8日

その4から続く

旅の4日目、中津渓谷で帰還組4人と別れ、われわれは、県道379号線をひたすら真っ直ぐ西に進み、愛媛県西南部の大洲に向かうことになった。

四国は、県道とはいえ山奥に入ると1車線きりで、対向車が来るとどちらかが道を譲らなければならないほど道が狭い。

かなりの数のトンネルを潜り抜け、ようやく内子町に出たのはスタートしてから3時間ほど経ったころだろうか。



いよいよ本日の宿泊地大洲(おおず)の町が近づいて来た。


大洲は、大洲藩五万石の小さな旧城下町だが、その景観には定評がある。

とくに肘(ひじ)川の洲の、小高い山に築かれた大洲城の姿は、圧巻と言っても良い。



司馬遼太郎は、何度か大洲の町を通りかかったことがあるそうだが、昭和30年代の終わりころ「はじめて大洲旧城を通過したとき、水と山と城が造り上げた景観の美しさに息を忘れる思いがした」・・・と絶賛している。

                  川の真ん中にそびえる大洲城

その後、司馬遼太郎は「街道をゆく」の旅の取材で、松山から南下して大洲の町に初めて宿泊した。一行が泊まったのは、肘川沿いの老舗旅館「油屋」であった。



一方われわれは、肘川大橋の手前のビジネスホテルに泊まることになっている。

大洲に来てはじめて知ったのだが、意外にこの町には巡礼者が多いらしい。四国八十八ケ所の札所はないが、四国別格霊場や番外霊場があるという。

この季節、こうした巡礼者が町の民宿や簡易旅館に宿泊するため、一般客の予約は後回しになる。

カヌーの師匠が、事前に予約を入れると、巡礼者優先のため断られたそうだが、「われわれも、河原をさまよう巡礼者のようなもの・・」と食い下がったそうだが、もちろん取り合ってくれるはずもない。

ホテルで受付をすませ、巡礼者らしく備え付けの洗濯機で洗いものをして、夕方から散歩がてら日帰り温泉の「臥龍の湯」まで歩いて行くことにした。

途中、肘川大橋の上から、夕陽に染まる大洲城を見た。

確かに、雄大な肘川越しに見上げる城の景観は、日本人好みのする佇まいに違いない。

司馬遼太郎が「日本の旧城下町でこれほど美しい一角を持った土地はない」と回想しているのもうな付ける。

もっとも取材で訪れた時には、城の左側にコンクリートの建物ができていたので、少し鼻白んだようだ。


夕陽に染まる城の写真を撮ろうと、皆より少し早くホテルを出てきたので、司馬遼太郎が泊まったという油屋という旅館を探してみた。

氏には珍しく、宿泊した旅館をほめている。

「『Hさん、これはよかったですな』と、路上に立ち止ってしまった」。Hさんとは編集部のひとで、司馬遼は、「路上から宿の油屋を見ると、全体の結構といい、店先の構えと言い、江戸末期の東海道の名だたる宿場のなかでも由緒ありそうな旅籠」(街道をゆく」)と手放しで喜んでいる。

めざす油屋はすぐに分かった。隣の古い煉瓦造りの建物とは対照的に、昔の蔵のような造りだが、外見からだけでは、それが本当に古いものなのか、新しく建て直したものなのか判然としない。

後で知ったのだが、油屋は所有者が何度か変わって、いまでは飲食店になっているという。 油屋
大洲は「水の町」である。

町の東側を流れる肘川は長さ100kmに及ぶ大河で、古くから水運の町として栄えてきた。川沿いの大洲や宿間の町は、上流から舟や筏で紙や木炭、材木を運ぶ船乗りや商人たちでに大いに賑わったという。目的地は、瀬戸内海に面する河口「長浜」の港である。ここから対岸の港に向かう便船がある。



文久2年(1862年)3月24日、土佐を脱藩した坂本龍馬も、肘川の支流の小田川で舟に乗り、大洲の「油屋」付近でひと休みした。そのあと、再び乗船して長浜に着き、同月28日、長州藩(山口県)の上関に向かった。竜馬が明治維新の大波に乗り出した、記念すべき日だという。

このとき、竜馬が大洲の町について語ったとされる口伝がある。「大洲は景色が美しい。女はきれいじゃ。けんど侍が持っている刀は、ありゃみな、なまくらじゃ」・・。(「歩いてみよう坂本龍馬脱藩の道」より)

ともかく、大洲はその昔から風光明媚な景勝地だったことは間違いないようだ。


大洲は「霧の町」でもある。

大洲盆地には支流や肘川が幾重にも蛇行し、山が迫っているため寒暖の差が激しく、そのために霧が発生しやすくなる。

河口の長浜では、冬の晴れた日に、大洲盆地で発生した霧が川を下って、町全体を包み込む「肘川嵐」と呼ばれる現象になる。地元では「肘川おろし」とか、ただ単に「あらせ」と呼んでいるそうだ。

大洲に来たら「ぜひこの霧が見たい」とも思っていたが、残念ながら季節は5月である。



しかし朝、目を覚ますと、陽がだいぶ昇っているが、なんと向うの山裾に、うっすらと霧がかかっているではないか。

カメラを抱えて、急いで肘川大橋に向かうと、かろうじて川面にわずかな靄(もや)がかかっている。

あと1時間早ければ、あるいはわずかに霧の中に浮かぶ大洲城が見えたのかもしれない。


橋の上で写真を撮っていると、高校生らしい若者が近づいて来た。試しにこの辺りでは一体いつ頃まで霧が出るのか聞いてみた。

すると、自分は大洲に住んでいるのではないので、この辺りのことは分からない、という。

まだ7時を少し過ぎた頃なので、(じゃあこんなに早く)一体どこから来たのか、と尋ねると「長浜」からだという。

そう答えると、なにごともなかったような足取りで歩いて行こうとしたが、ふと立ち止まって「3月頃まででしょうか?」と言って、陽気に鼻歌を唄いながら、朝もやの中に消えていった。

都会では見かけない、なんともおっとりとした「伊予ふう」を彷彿とさせるの若者だった
ホテルに戻り、フロントで聞いてみると、どうやら今朝は珍しく冷え込んで、10℃を下回ったらしい。



食後、出発の準備をして、町の観光に出た。

肘川沿いの石垣の堤防

大洲は、「伊予の小京都」とか「水郷の町」いわれるほどだから、並の観光地と違って”浮かれた気分がなく”、町全体に落ち着いた雰囲気が漂っている。

おはなはん通り
この町が全国に知られるようになったのが、NHKの朝のTVドラマ「おはなはん」(昭和41年放映・主演・樫山文枝)。町には今でも
このときの主題歌が流れているから懐かしい。

このほかにも昔の松山の町並みが残っているという理由で、映画(坊ちゃんなど)やTVのロケ地に利用されているという。

確かに町全体が、古き良き昭和の雰囲気をとどめているので、どこか心なごむ気分になる。

祭り(GW)が終わった後の、閑散とした佇まいが、その気分を一層引き立てているのかもしれない。


八百屋さんの店先に、笹で編んだバッタが飾ってある。
果たしてこれは売り物だろうか?


次に向かうのは、この旅の大きな楽しみのひとつでもあった「臥龍山荘」。



肘川の景観をそっくり借景にして建てられた臥龍山荘は、地元の豪商・河内寅次郎が構想10年、着工に3年7月の時間を費やして、明治35年に完成させた数寄屋造りの建物だ。

茶室の専門家を相談役にして、桂離宮や修学院離宮などを参考に、京都から名工を呼び寄せて、贅を尽くして造り上げた名建築と言っても良い。


建物は、大洲城を少し遡った上流の彎曲した川岸の、深い淵の石垣の上にある。この辺りは肘川のなかでも屈指の景勝地として知られ、この淵を「臥龍淵」と称した。

3代藩主が吉野から桜を、また龍田から楓を移植して景観を作り上げ、歴代藩主もこの地で宴を開いたという。


その後、「臥龍淵」は顧みられることもなく、荒廃に任せていたそうだが、明治30年ころ、貿易商として一代を築いた大洲出身の河内寅次郎が土地を購入し、ここに臥龍山荘を築こうと着想したという。




実はこれほどの来歴を持つ臥龍山荘は、30数年前までは、地元でもほとんど知られることなく、個人所有のまま廃れるかもしれないという運命にあったという。

それを救うきっかけのひとつが、建築家黒川紀章氏。

山荘がまだ個人所有の昭和55年、たまたま山荘を訪れた黒川紀章氏が、「桂離宮や修学院離宮に勝るとも劣らない傑作」と驚き、「数寄屋考--花数寄のこと」と題し、建築雑誌に臥龍山荘を紹介したという。

建物は、平成7年に大改修を終え、いまでは市と県が管理する有形文化財として一般公開されている。


茅ぶきの屋内に入ると、「清吹の間」に通される。9.5畳の書院棚のある部屋で、四季の意匠を凝らした透かし彫りの欄間がある。

春は、肘川に因んで「花筏」の透かし彫り。西側の欄間の前には障子があるので、夕陽が差すと、花筏の模様が障子に淡く色づくという趣向だ。
夏は「水紋」、秋は「菊水」、冬は「雪輪窓」という具合に、大洲の四季が、部屋の東西南北の欄間をさりげなく飾っている。


臥龍院と称する主棟には、このほか「迎礼の間」、「霞月の間」、「壱是の間」の4部屋がある。

いずれの部屋壁には、茶室を思わせる利休ねずみの和紙や黒ずんだ漆喰塗りが施されている。もちろんそれぞれの部屋の書棚の造りや床板、柱、畳、調度に至るまで、すべてに渡って繊細な意匠が施されてるので、きりがない。

山荘のすごさは、意匠だけではない。「壱是の間」の書院の両側に張られた脇板は、3千年前の化石となった屋久杉のため、削るのに2年の歳月を要したという。


あるいは案内の女性が、濡れ縁を指差して、「栂の良材を簀の子縁で回し、銅製の飾り釘でアクセント」をつけているという。よく見ると釘一本一本に銘が刻んである。




茅葺の家屋も含めて、全体として農家を思わせる意匠は、利休好みの”わびさび”の世界を重んじているためだそうだ。


臥龍院を出て庭に下りてみる。

石に手毬のような紋様のある「てまり石」や、石臼や巨大な「げんだい石」が庭にアクセントをつけている。

鬱蒼と茂った楓の緑が、目に沁みるようだ。

樹木はもちろん、苔や竹垣にも匠の目が行き届いていることを痛感する。

司馬遼太郎は、一体この山荘を訪れたことがあるのだろうか?と思って、「街道を行く」を読み返しても「臥龍」の「が」の字もない。

旅の終盤まで、ずっとそう思っていたのだが、実は司馬氏も偶然ながらこの山荘を訪れていたのである。しかもちゃんと本の中で、この建物について2ページも割いている。

この事実を知ったのは、「水郷の数寄屋 臥龍山荘」(中村英利子著)という名著を読んだからだった。



その日、氏は、街中で武家屋敷を見たいと思いたって、タクシーに乗り、知らずに案内されたのが臥龍院。

当時はまだ、臥龍院の主である2代目の川内陽一氏(当時90歳)が健在で、全くの私邸として住んでいた。

そうとも知らず、氏は門をくぐり庭奥に進んで行った。

「武家屋敷だろうかと思ったが、運転手さんがここです。と断言したために、門をくぐってしまった。

 雨が降り始めている。

 建物は、堅牢ななかに数奇の軽みのある普請で、ただ事でない感じがする」(街道を行く)

 ・・とさすがに一目見ただけで、この建物がもつ”無形の価値”をズバリ見抜いている。



「屋根は、すべてわらでふかれており、それもわらぶきの屋根構造そのものが力学的な強さと美しさを感じさせるもので、桂離宮のなかのどこかの建物を思わせるようである」。



その評はさらに、微細にわたり・・・

「木口がよく、障子の指物も水を切ったように優美で、それから逆算すると、わらぶきであることは、武家らしい質素から来たものではなく、贅沢な美学性から出ているように思われる」。

”一流は一流を知る”というけれど、これほど的確に、この建物の構想(コンセプト)自体を言い当ている。



続けて氏は、・・・

「(まずいことになっタかもしれない)と後悔した。

しかし入ってしまった以上、とりあえず声をかけて、侵入者でなく訪問者であることを断わねばならず、そのために人の気配を求めてさらに奥に進まざるを得ない」。



このくだりは、司馬遼太郎にしては珍しく困った様子を描いて面白い。

結局、案内を入れると、この家を手伝っていた夫人が出てきて「闖入者”のあいさつを受け入れてくれた」、という。

このあとも、夫人との一問一答が続くのだが、きりがないので省略せざるを得ない。


臥龍山荘の奥には、もう一つ「不老庵」という建物がある。 臥龍の淵の崖に石垣を築き、その上に懸け造りという工法で、庵を建てたという。

肘川に少しせり出しているので、臥龍の淵を真下に見ることができる。


不老庵の造りは、数寄者の極みともいうべきもので、屋形舟を模して造ったという。

まず部屋に入ると、肱川の雄大な青い水面と山が目の飛び込んできて、まるで大きな船の船橋(せんきょう)に入ったような錯覚に陥る。


カヌーの師匠は、自宅の作業小屋を改造し、「筏(カヌー)庵」と称した茶室を自ら設計、施工、内装から、炉まで切ったほどの人だから、不老庵への関心は人並みではない。

自称”路地裏千家”と名乗っているが、あまりお点前を見たことがない。

閑話休題。



この不老庵の驚くべき意匠は、天井に一張りの竹網代を凸型に貼ったこと。

庵の向かいの冨士山(とみすやま)に浮かんだ月が、川面に映り、その反射光を天井に映そうという趣向だ。

昨年の秋、はじめて不老庵で、実際に天井に映る「月見」の催しをしたというから羨ましい


われわれはその日、臥龍山荘を出てから、大洲城に上り、眼下に広がる肘川の流れを眺めた。


大洲城から見た肘川の流れ


本日は、これから松山の道後温泉に寄って、今治から「しまなみ海道」を渡り、広島県の生口島に泊まることになっている。


旅はまだ3日ある。



その6に続く

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