●讃岐 2012年5月2日(水)
香川県仲多度郡多度津~金毘羅
その4から続く
旅の4日目(5月2日)は、讃岐(香川県)の多度津にいる。空海が生まれた善通寺と背中合わせの古い港町である。
この讃岐の地形について、司馬遼太郎が「空海の風景」という小説の冒頭でこう書き記している。
讃岐のくにというのは、・・・・野がひろく、山がとびきりひくい。
野のあちこちに物でも撒いたように円錐形の丘が散在しており、野がひろ
いせいか、海明かりのする空がひどく開豁(かいかつ)に見え、瀬戸内海に
湧く雲がさまざまに変化して、人の夢想を育てるのにはかっこうの自然とい
えるのかもしれない。
開豁(かいかつ)とは、広々として眺めが良いという意味らしい。
人の夢想を育てるというのは、空海(弘法大師)であり、平賀源内であるかもしれない。
確かに、讃岐平野に点在する山はほとんどが200mほどの低山で、琴平山が高くてもせいぜい500mくらいしかない。山のかたちが、茶碗を伏せたような綺麗な円錐形をして、他の地方にでもあれば飯盛山と呼ばれたに違いない。
多度津は、カヌー仲間のTさんの実家がある港町で、家は港から数キロ離れた小高い山の裾野にある。数百m先に海が迫って、備讃の海と島々が庭の借景になっている。
背後の山に向かって、ぶどうとビワの棚が斜面を覆い、道に沿ってわずかに自家用の畑がある。
少し坂道を登ると、瀬戸内海が見渡せる。
晴れていれば、からだに染みわたるほど惚れ惚れする風景だが、本日は朝からの雨。雲が厚く、遠く海原を覆っている。。
葉陰の間から見える、お碗を伏せたような亀笠島という小島は、Tさんが共有する島という。
夕方、カヌー仲間の後発部隊3名とTさん宅で合流することになっているが、それまでには大分時間がある。
当初の予定では、隣町の宅間港から船に乗って、粟島という小さい島に渡るつもりだったのだが、この悪天候では取りやめるしかない。家に籠っているわけにもゆかないので、とりあえず金比羅参りに行くことになった。
この四国最大の観光地とも言われた金比羅山にいまだ行ったことがない。
金比羅山に行く途中、師匠が「満濃池」という、古代でも、現代でも恐らく日本最大の溜め池に連れて行ってくれた。
讃岐の地図を広げると、まるで虫食いのように無数の水色をした大小の池がある。年間を通して雨の少ない土地のため、古くから多くの溜池が作られてきた。
地図上で無数の溜池を数えてみると(ウソ)、およそ1万6千ある。
中でも「満濃池」は、空海の生まれる以前からあったのだが、その完成には空海自身が大きくかかわっている。
司馬遼太郎もこの池を訪れたようで、「空海の風景」のなかで、「池は三方を山でかこまれて浸蝕谷をなしているが、北だけはかつては野の方向に向かって開口していたのを空海が堰堤を築いて水をせき止め、池にした」とある。
湖畔の案内板に、<嵯峨天皇の勅許により、空海がこの地に派遣され、湖畔に護摩壇を築き、密教の秘法を修しつつ、(留学先の中国で仕入れた堤防技術を披歴して)堤防を完成させた>とある。
奈良時代、仏教は、先進的な思想を日本にもたらしただけでなく、最先端のサイエンスや技術も付随して日本にもたらした。
満濃池の完成は、弘仁12年(821年)、空海48歳の年であった。
満農池
周囲20kmのこの巨大池のほとりに、釣り禁止と張り紙があるが、ヤンチャそうな少年が、大きなブラックバスを釣りあげた。どうやらビギナーズラックのようで、冷笑する友人を尻目に、「しっかり写真撮っておいてやあ~」とひとり興奮している様子がおかしい。
そもそも金比羅とは、インド神「クンピーラ」が語源で、日本では海の守護神として崇められてきた。塩飽諸島の船方衆によって広めらたともいう。
はじめは、近辺の松尾寺の一守護神として祀られたが、いつしか寺が陰になって金比羅の方が注目されるようになったという。元亀4年(1573年)の棟札には「金比羅王赤如水」の文字と記されていたという
最も隆盛を極めたのは、江戸時代後期で、伊勢参りと同様、京、大阪、江戸、四国、九州、さらに北前船の航路で北陸からも参詣者が訪れたという。
同行のRieちゃんは福井県の出身だが、高校の修学旅行は、京・奈良でも東京でもなく、金比羅だったという。遥か遠い時代の物見遊山の地が、現代まで連綿と受け継がれてきたのだろうか。
本宮までの参道の石段は785段もある。
金比羅山は正式には、象頭(ぞうず)山といい、この辺りでは標高が高く524mもある。参詣者は、その象頭山の山腹をくねるようにして這い登って行かなければならない。
年寄りのために、今でも専門の駕籠担ぎがいるのには驚いた。
一、金毘羅 船々 追い手に 帆かけて シュラシュシュシュ♪
回れば 四国は 讃州 那珂(なか)の郡(ごおり)
象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現 いちど まわれば♪
二、金毘羅石段 桜の真盛(まさか)り キララララ♪
振袖島田が サッとあがる
裾には降りくる 花の雲 いちど まわれば♪
・・・・この有名な俗曲の浮かれた気分が、讃岐の明るさと共に、参道のにぎわいを見ていると、今でもこの辺りに漂ってくる。
三、 金毘羅 御(み)山の 青葉のかげから キララララ♪
金の御幣(ごへい)の 光がチョイさしゃ
海山雲霧(うみやまくもきり) 晴れわたる いちど まわれば♪
この辺りは、海に近く霧が多く発生するのだろうか、本宮に近づくに従って、霧が濃くなって来た。霧の間からかすかに琴平の町が見渡せる。
参道入り口から石段を30分ほどかかって登り詰め、ようやく本宮に辿りついた。
老若男女、修学旅行の生徒や外人、若いカップル、じつにさまざまな観光客がいる。もちろんこうした観光客だけでなく、地元の人の参詣客もいる。
地元のTさんが子供のころ、正月元旦は親に連れられて金比羅参りをしたという。
金比羅大社を参詣して驚くのは、広々とした石段や石灯籠や石の欄干の大きさやその数の多さだろう。これらの巨大な石をどうやって山上に運び上げたのか、歩きながらその疑問ばかりが頭に浮かんで仕方がない。
本宮で、金比羅さんのお札を買った。
金比羅山の西の玄関口、多度津の歴史をひも解くと、塩飽の島と同様、いくつかの盛衰がある。
多度津とは、「多く人が海を渡る津(港)」というところから名づけられたように、良港に恵まれて来た。
大化の改新のころ、すでに津として機能していたようで、讃岐を代表するほどの要衝の地。室町時代からおよそ250年間は西讃岐支配の拠点だったという。
その後一時期、衰微したようだが、江戸時代中ごろ、丸亀藩から一万石を与えられて独立し、多度津藩となってからは、再び力を盛り返して来た。
四国、九州地方の海運の拠点や金比羅の参詣者の玄関口にもなった。
とくに明治30年まで続いた北前船の関西、江戸の中継地点として賑わったという。湊付近には廻船問屋が数十軒、干だら、材木商、砂糖、米問屋や商家などが軒を連ねたそうだ。
手前ではなく遥かに霞んで見えるのが多度津港
文化7年(1810年)、十返舎一九が書いた「金比羅参詣続膝栗毛」に、弥次さん喜多さんが多度津の湊に立ち寄った物語があるという。
さらに坂本竜馬が高知を脱藩し、海を渡ったのは確かこの多度津のはずである。
この多度津の湊と共に、金比羅参詣者で賑わったのが丸亀港で、この港は京、大坂方面の船の玄関口。
前日、塩飽の島に渡ったのもこの丸亀港で、桟橋に石灯籠があって、当時の風情を再現しているのが良い。
四、お宮は金毘羅 船神(ふながみ)さまだよ キララララ
時化(しけ)でも無事だよ 雪洞(ぼんぼり)ゃ明るい
錨をおろして 遊ばんせ いちど まわれば♪
江戸時代、瀬戸内海はどれほど多くの船で賑わっていたのだろう。
幕末、長崎と江戸を往来したシーボルトが、「江戸参府紀行」の中でその賑わいをこう活写している。
<この海上の活溌な船の行き来は美しい自然に劣らぬほどわれわれを楽しませてくれた。数百の商船にわれわれは出会ったし、数え切れない漁船は、昼間は楽しげな舟歌で活気をみなぎらせ、夜は漁火で海を照らしていた。われわれの船の上でも随行の日本人はいつも上機嫌だった>
海上でさえ、昼夜を分かたず賑わいを見せていたのだから、恐らく港は常夜灯を灯し、町は殷賑を極めていたのだろう。
黒船来航の6年前の弘化4年(1847年)に刊行された「金比羅参詣名所図会」に、当時の多度津の賑わいぶりが紹介されている。
<此の津(多度郡)は丸亀に続いての繁昌の地なり。原来波塘の構えよく、入船の便利よきが故に湊に泊る船はなはだしく、近辺には船宿、旅駕屋建てつづき、あるいは岸に上酒、煮売の出店、(略)往来絶ゆることなし。かつまた、西国筋、往還りの諸船の内、金比羅参詣なさんとする徒はここに着船して、善通寺を拝し、象頭山に登る。その都合よきをもってここに船を待たせ参詣するもの多し>。
多度津は、時代を下って明治時代には、香川県の産業発展に大きく貢献したのは間違いない。
その理由の一つに、幕末に近い天保9年(1839年)、多度津藩主京極高琢が、6,200両余の大金を投じて港を整備したため、瀬戸内海でも屈指の良港になったことが挙げられる。
また多度津は、四国の鉄道の発祥の地でもある(実際には伊予鉄道に次ぐ四国で2番目の開業)。
明治22年、多度津を起点として、琴平、丸亀の間15.5kmを走る讃岐鉄道が開通し、金比羅山や善通寺に大勢の乗客を運んだ。現在でもJR土讃線がこの区間を走っている。
その後、多度津駅は、土讃線、予讃線の開通で分岐点ともなり、駅舎をいまの位置に移したという。
こうした鉄道の町多度津には、JR多度津工場がある。昭和22年には、国鉄職員が2000人を超えたという。まさに名実とも「鉄道の町」といっても良い。この多度津の駅をひと目見ようと、金比羅山に行く途中、寄ってもらうことにしたが、その駅舎は平屋で小さく、いまや「鉄道の町」の面影はない。
駅前には、四国鉄道発祥の地の記念として、昭和10年頃から40年まで活躍した8620系の蒸気機関車の動輪が飾ってある。
当時の駅舎の面影を見るなら、恐らく大正末期に建てられた琴平駅の駅舎だろう。
木造で三角屋根、天井が高く、広々として、当時としてはモダンな建物だったのだろう。
大正末に立てられた駅舎
金比羅山から降りてきたのがちょうど昼ごろなので、駅前で讃岐うどんを食べて帰路につくことになった。
朝から師匠の体調が悪く、金比羅山にも登らずじまい。
そこで、Tさんの家に帰る途中、来るときに気になっていたお寺で降ろしてもらうことにした。もうここなら歩いて帰れる距離にある。
気になっていたお寺とは「海岸寺」である。
霧雨で煙った景色の中に、二重の塔がおぼろに見えている。その姿が京都か奈良の郊外にある、山を背に、緑に囲まれた古寺のようで美しい。
それに確か小説「空海の風景」のなかに、「海岸寺」という名前が出てきたような記憶がある。
まず海岸寺の「奥ノ院」に車を止めてもらい、周辺を歩いてみることにした。
古寺の境内に入ると小さな石橋があり、その先を進むと崩れかかったようななだらかな石段がある。
海岸寺とは、どうやら空海誕生ゆかりの場所、ということが何となく分ってきた。
空海誕生の地は、公式には海岸寺から東南に数キロ離れた「善通寺」とされているが、実際には空海の母、玉依御前が、この海岸寺付近に産屋を設けて空海を産んだという。境内には産湯に使った井戸もあるらしい。
いまわれわれが立っている「海岸寺奥ノ院」が、まさにその場所であった。
Tさんの家からわずか数kmしか離れていない場所が、まさか空海誕生の地とは想像もつかなかった。
沙門空海生誕の日が、宝亀5年(774年)6月15日というから、いまから1240年前の遥か遠い昔になる。
雨に濡れた、緩やかな坂を登って行くと、やがて明るく、見晴らしの良い広場のようなところに出た。海ぞいの崖のところに文殊堂というお堂があり、眼下に屏風ヶ浦と呼ばれる海岸線が連なっている。海の向こうに薄っすらと亀笠島が浮かんで見えている。
奥ノ院の小山を降りて、海岸寺に参詣し、境内を横切って屏風ヶ浦の浜に出た。
海岸の堤防のそばに、紫の花をつけたフジ棚があり、目の前に瀬戸内の海が広がっている。
この風景は、恐らく空海が生まれた時代とほとんど変わらないだろう。
空海は、瀬戸内海に湧く、さまざまに変化する雲を見て、一体何を夢想していたのだろうか。
その6に続く→次回はようやく仁淀川へ













