●塩飽の島
その2から続く→
旅の2日目と、3日目に泊まった那賀川の鷲敷(わじき)の宿は、21番札所の太龍寺の麓にある。
太龍寺は、弘法大師が19歳のころ、「虚空蔵求聞持法」という難行をしたことで有名な古刹。縁起によると、延暦12年(●)に堂塔が建立されたとある。
標高わずか61mだが、山中険しく、巡礼者にとっては”遍路ころがし”というわれるほどの難所だったらしい。しかし、平成4年にロープウェーが開通したために、多くの巡礼者が訪れるという。
ロープウェーの発着所前にある宿「そわか」は、巡礼者に宿を提供するため、ドミトリー(大部屋)の素泊まり(自炊・寝袋持参1,500円)から、個室2食付きまで様々な宿泊タイプがある。
巡礼者が多いため、洗濯機や乾燥機はもちろん、温泉もある。
師匠いわく、「われわれは、最上級の部屋を予約した」というが、それでも7,600円。初日の夕食に刺身が出て、翌日は小ぶりながら尾頭付きの鯛の塩焼きが出た。
食堂で顔を合わせると、にっこり微笑む外人さんは、ベルギーからわざわざ”歩き遍路”に来たらしい。宿の女性に聞くと、この外人さんは、途中車に乗せてもらって「お接待を受けた」とか、この土地ならではの言い方をする。
こうした外人さんが結構いて、自転車で遍路旅を続ける人も多いらしい。恐らくツーリング好きなヨーロッパ人だろう。
四国巡礼は、知る人ぞ知る、国際的な巡礼ツアーなのかもしれない。
3日目の朝、前日Tさんが近くに良い感じの古社がある、と言っていたのを思い出し、散歩がてら行ってみることにした。
蛭子(ひるこ)神社というこの古社は、見るからに歴史を感じさせる。境内に幾本もの巨大杉がある。まだ夜が明けて間近のせいか、年配の婦人が、参道の石灯篭に蝋燭を灯して回っている。
拝殿で参拝し、奥を覗くと、宮司さんらしい男性が、かいがいしく掃除をしている。少し手がとまったところで、「古い神社のようですね」と声を掛けると、「ええ平安時代末期と聞いてます。弘法大師もこの社の詣でたと言い伝えられています」と、柔らかい物腰で応えてくれた。弘法大師(774-835)が来たというなら、平安の前だから時代が合わないが、聴き違いか、勘違いだろう。
しかし、この巨大な老杉は、樹齢1000年は間違いないらしい。
ともかく、四国を旅していると、途方もなく時代が遡って、100年、200年などはつい最近のことのように思えてくる。
さて、旅の3日目は、この鷲敷を出発して、一度徳島に戻り、高松自動車道(高速)に乗って、香川県の丸亀港に行くことになっている。
丸亀港から12時30分発の船に乗って、塩飽(しわく)諸島の本島(ほんじま)に渡る計画である。
塩飽諸島は、香川県と岡山県の間の、瀬戸内海に浮かぶ大小28からなる有人・無人の島々。いわゆる備讃諸島の一部である。
瀬戸内海は、東西450Km、南北で最も広いところが55km、狭いところで5km。その内海におよそ700の島があり、有人の島はわずか150。「わずか」というべきか、「も」と言うべきか?
満潮時に周囲0.1km以上あるものを「島」と呼ぶそうだから、それ以下をふくめると相当数になる。
塩飽諸島の島民が操船が巧みで、一時期海賊として周辺の海を席巻していたが、時代が下って織田、秀吉、さらに家康の時代には塩飽水軍として活躍した。
水軍と言っても、この時代は村上水軍のような戦闘的な集団ではなく、海運面に長けた集団だったという。
丸亀港から塩飽の本島(ほんじま)までは、わずか35分ほど。われわれが乗る船の便数は一日8便で、対岸の岡山(児島)からこの島に渡る船は4便ある。
船に乗って島に渡るのは、何十年振りだろうか?
船のうしろのデッキに腰をかけて出発を待つ。
甲板には、ラーメンや菓子などの食料品が詰まった乗客の荷物がある。
この船は、島の住民にとっては、日常生活に必要な交通機関らしいが、旅人にとっては、どこか遠い世界にいざなってくれる、ロマン溢れる船旅でもある。
3年前、四万十川に行く途中、カヌー仲間のTさんの実家・多度津の海から初めて塩飽諸島を見た。以来、どこかの島に渡ってみたいという思いがあった。
どんよりと低く憂鬱そうな空が、徐々に明るさを増し、水面の色も濃い透明なブルーになってきた。
本島(ほんじま)は、この塩飽諸島の本拠地で、面積はわずか6.7k㎡、周囲16.4kmだが、文化財の宝庫でもある。
とくに島の東端の笠島町は、国の重要伝統的建造物群の保存地区に指定され、町並みは、島では珍しい城下町の作りをしているという。
牛島(手前)と本島(奥)
船は、本島に着く前に、手前の牛島という小さな港に着岸。面積わずか700㎡、島の周囲は4.2kmの小島だが、人家もあれば、寺もある。広大な湿原には、いまだ人の手の入らない自然が残っているという。
この牛島から本島までは、ほんのわずかの距離。
5分後、船は泊(とまり)の港に着いた。
本島に上陸すると、島の観光案内所が目に入ったので、行ってみると無人の様子。
しかし館内には、食堂があるので、ここで昼食をとることにした。
あとになってみると、島の食堂はここだけだったようだ。
食事を終って、隣の観光案内所を覗くと、さっきまで隣で食事をしていた女性が、その職員らしい。
ざっと島の様子を聞いて、港の前にあるレンタサイクルの店に行った。
島の移動手段は、当たり前だがタクシーやバスがないので、自転車に頼るしかない。
まず最初に訪れるのが、塩飽勤番所。
塩飽諸島は、歴史上、希有な特権を持っていた。
それは人名(にんみょう)とうい制度で、大名、小名と同じく、幕府から知行を受け、独立した自治を許されていた。
人名というくらいだから、人に与えられる権利で、塩飽7島の650人の船方衆に人名株が分け与えられた。
秀吉の治下、天正18年(1590年)に1250石が与えらえ、その後家康の時代になってもこの石高は受け継がれたれという。
役職は御用船方と言って、水運の権利を与えられる一方、大名たちの参勤交代の際に輸送の便宜を果たす役務を課せられたとか。
この小さな島の港から、堺、江戸を頻繁に往復し、日本海の航路まで行き来したという。
「塩飽勤番所」は、かつて島の自治を司っていた年寄りや勤番者の詰め所で、現在は国指定の重要文化財。江戸時代の建物らしい。
この番所には家康が、船方衆にを与えた人名の朱印状がいまも残っている。
普段は所内に入って見学できるのだが、都合の悪いことに当日は休日との事で、なんとも間が悪い。
次に向かうのは、笠島という海に面した小さな港町だが、町の作りは珍しく城下町の作りをしているという。見通しが効かないように、道がほんのわずかだが弓なりに湾曲していたり、T字型の露地がある。
この笠島集落に向かう道はわずかな勾配があり、自転車を精一杯漕ぐと、ようやく小さな峠のような場所に着く。
そこに専称寺という古寺がある。
専称寺は、この島の歴史を物語るにふさわしい小寺でもある。
塩飽諸島は、縄文、弥生時代にすでに人が住み、島には古墳跡もある。時代を下って、平安末期(1156年)の文書の中に、「讃岐国塩飽荘」とあり、この小島が荘園体制に組み込まれていたことが分っている。
そして1207年、浄土宗の始祖法然が、土佐に島流しになる途中、この島に立ち寄り滞在したのが、この専称寺の起こりという。
島の地頭の高階保遠が法然のために館の前に庵を作って、布教の助けをしたという。
この寺の境内には、島の実力者(年寄り)の巨大(3.3メートル)な「逆修塔」(1627年)と呼ばれる石塔がある。
寺の佇まいを見ると、人の気配がするような、あるいは廃屋なのか見定められないが、寺の建物を良く見ると、廃寺とは思えないほど、贅沢で微細な彫刻が施されている。
この小さな島に24の寺と15の社がある。その数だけでも、往時の繁栄を十分物語っている。
そして、かつての島の繁栄の跡が、この先の笠島の家並みにある。









