四国漫遊 その2

 ◆檮原(ゆすはら)への道

     高知県  2009年5月6日
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 5月6日早朝、「まだ漕ぎ足りない」というYさんとKさんに付き合って、Tさんと3人が、目の前の川をカヌーで行き来している。
今日はいよいよ四万十川のキャンプ地を去り、一度多度津に戻り、そこからあとは、2日間かけて香川、徳島を巡る予定だ。

途中、少し遠回りだが、檮原(ゆすはら)という町近くを通ってもらうことにした。

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四万十川の川下りの話を聞いて、ひとつ可能ならば「檮原(ゆすはら)」という土地に寄れないかとの希望を言ってみた。

実は、四国に足を踏み入れるのは今回が初めてで、およそ高知に限らず四国4県の地理にはまったく不案内だが、この檮原(ゆすはら)という地名だけは知っていた。

理由のひとつは、司馬遼太郎の「街道を行く」の<因幡・伯耆のみち、檮原街道>を読んでいたこと。

この本の冒頭で、「ユスハラは、土佐のチベットやきに、などといわれた」とある。

地理的に言えば、四国左半分の丁度真ん中に位置し、四万十川の上流の四囲を山脈に囲まれた、まさに辺境の町。

観光地としての史跡があるわけでも、風光明媚な土地でもない。唯一、「脱藩の道」とか「維新の道」という無形の名所があるだけの土地だ。坂本竜馬をはじめとする維新の志士たちが、土佐から伊予を抜け、京を目指した脱藩の道筋にあたる。

だが、司馬遼太郎はこの檮原を「まこと気になる土地で20年来、そこへゆきたいと思いつつ果たせなかった」ともいう。

司馬遼太郎が、20年の間、思いを馳せた土地とは一体どんなところだろう、という思いがある。

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今朝は早起きをしたので、ゆっくりコーヒーを淹れ、一服したあと、2時間ほどかけてテントやカヌーを撤収し、10時半ころ江川崎の河原を後にした。
今日は、ほぼ半日かけて、高知県から香川県まで、四国をほぼ斜めに横断することになる。
檮原への道は、往きに来た道を辿り、土佐大正というところで檮原川の下流にぶつかり、そこを遡上することになる。

だがそこから檮原へ向かう道は、恐らく相当な隘路であることが予想される。時間的もかなりかかりそうだから無理かもしれない。

土佐大正に着いたのが丁度昼ころになったので、道の駅で昼食を摂り、そこで所要時間を聞いてみることにした。

土地の人に聞くと、やはりここから檮原の町までは50km、時間にしてゆうに1時間半はかかるというので、断念するしかない。

しかし寄り道だが、檮原川を見ながら途中のダム辺りまで行ってくれることになった。


 

話は少し脇道にそれるが、カヌー初日のゴール地点の口屋内という集落で、大師を祀った「茶堂」の話を記したが、その後この茶堂のことが気になって仕方がない。地蔵堂や阿弥陀堂のような宗教的な建物であるようだが、小屋の前には「茶堂」としっかり書いてある。

試しにそこにいたおばあさんに、このお堂では人が集まって行事のようなものをするのですかと聞いてみた。するとやはり、年に一度、夏ころに何々をすると言っていたが、良く聞き取れない。お経を読むのか、祭りのような行事をするのか良く分からないが、この建物は大師を祀って建てられたのはほぼ間違いないようだ。

気になるのは、なぜ「茶堂」という名前が付けられたか、ということだ。

こうしたお堂は、ここだけに限らず、ほかにもあると思って、道々探していたのだが、確かに茶堂と分かる建物がない。

ようやく見つけたのが、檮原への道を辿っている途中、川の様子を見てみようということになって、偶然にも車を止めた道路わきであった。

茶堂に近づくと、やはり以前見た茶堂と同じく、像を祀っている。大師である確証はないが、作りは茶堂そのものといって良い。
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旅から帰ってもう一度、「街道を行く」檮原街道編を読み返してみると、全く気がつかなかったが、司馬遼太郎も、この茶堂に心惹かれていたようだ。茶堂に関して、3ページも紙数を割いている。

<・・山中の小渓流を渡ると、高野という在所がある。・・道路の左側に、茶堂が立っていた。『これが見たかったんです』・・『茶堂は、何の目的でたてられていたものだろう』とつぶやいてみた。>とある。

しかし、司馬遼は、この茶堂がお地蔵さんのような、宗教的施設ではあるまいと、言い切っている。

彼が目にした茶堂は、「屋根は本ぶきの萱ぶきで、ぼってりとあつい。それを五本ばかりの柱が支えていて、戸はなく、吹きさらしである。床はひくい。床の広さは、目分量でみて、江戸間六畳ほどである。・・・一隅に神棚のようなものがあって、シメナワが張られ・・・」とある。

目の前の茶堂は、屋根が萱葺きではないことと、シメナワがないこと以外は、まったくこの記述と同じだ。

文中、「高知県歴史辞典」の坂本正夫氏の説明を引用し、「茶堂」の歴史が文献的には戦国時代末期にまで遡ることができ、その目的は、村を通る旅人を接待する場所であると推測する。

茶堂が、必ず村のはずれにあるというのも決めごとらしい。確かに目の前の茶堂の周りには、家らしきものはないから、村のはずれといってもおかしくはない。

やはり茶堂は、村はずれにたどり着いた旅人に、茶の湯を振る舞って、四国特有のお接待をする場所だったのだろうか?同時に、大師や地蔵を祭る機能を兼ね備えていた、というのがどうやら真相のようだ。

檮原町の茶屋谷というところでは、ある時期まで、「8月1日からひと月の間、村人が当番で茶の湯の接待をしていた」ともいう。

口屋内のおばあさんが、夏にお茶堂で行事をするといっていた時期と符合する。


 

喫茶の風習が、いまでもこの辺りに残っているようだ。

高知に限らず、愛媛でも、山腹の猫の額ほどの狭い土地に、ほんのわずかな茶畑があちこちにみえる。四万十川流域の道の駅では、必ずといっていいほど、地元の名の付いた茶葉が売られていた。


 

むかし檮原から津野町に至る一帯を、永い間津野一族が治めていた。中でも室町中期に、津野孫次郎之高という賢明な当主が現れて、京文化を積極的に取り入れた。そのひとつが、茶の風習だそうだ。ひところ津野文化と呼ばれ、当時、檮原は僻地とはいえない先進的な土地であったという。

気候が温暖で、川霧が発生するところの茶葉は美味しい、という話を聞いたことがある。あるいは之高は、殖産のために、この土地にふさわしい茶葉の栽培を奨励したのかもしれない。

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梼原川は、四万十川に比べて水量が少なく、川幅も狭く、石灰岩がむき出しになって荒々しい。梼原川の上流からさらに遡ると、日本三大カルストの一つ「四国カルスト台地」が、東西25kmにわたり横たわっている。

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土佐大正から20分ほど走ると、2車線の道が1車線になり、いよいよ奥深い山道に差し掛かってきた。

曲がりくねった道を、スピードを落とさず無理に先を急ぐと、対向車同士が二進も三進も行かず、どちらかが後戻りせざるを得なくなる。

偏狭な山道にはなれている運転巧者の師匠もさすがに、この辺りから慎重な運転になる。

行き交う車の数が、ぐんと少なくなってきた。
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檮原に行きたいと思ったもう一つの理由、というよりはむしろこちらの方が大きな理由なのだが、宮本常一が書いた「土佐源氏」の舞台が、この檮原であるからだ。

「土佐源氏」は、民俗学者の宮本常一が、檮原の橋の下で、元博労で、盲目の乞食から、その半生と女性遍歴の話しを聞き取った記録である。宮本の代表的な作品とも言われている。

しかし、土佐源氏をして”作品”というのは微妙な表現である。

というのは、宮本自身が言うように、この文章は古老から聞いた話を、そのまま伝承として記録する目的で書かれたはずで、いわゆる文学的な”作品”とは異なるはずだからだ。

しかし、明治の下層に生きる民の暮らしを、これほど生き生きと描いたた文章は他にはない。加えて、文章のほとんどが、古老の話し言葉で綴られている得意な文体と、濃密な内容、そして卓越した表現が、伝承の記録という域をはるかに越えて、”文学的な作品”としての価値を生み出したのだろう。

現在、宮本常一に関する本が数多く出版されているが、そのほとんどの著者がこの作品にふれ、感銘を受けたという。

当時、一部の民俗学者の間で、これは宮本の創作であろう、という声もささやかれたという。


 

実はこの話しは、当初(1959年)、「年寄りたち」と題して、「民話」という雑誌に連載のひとつとして掲載され、その後、「土佐に住まう乞食」と改題され、中身も少し加えられて、日本残酷物語の一編として掲載された。宮本が檮原の老人から話を聞いた1942年から17年の年月が経っている。

その後、「土佐源氏」とさらに改題されたこの作品は、岩波書房から出版された「忘れられた日本人」という全編宮本の筆による本のなかに掲載され、初めて世間の脚光を浴びることになった。

著作が次々に改題されるたびに、文章も「あるところは継ぎ足し、あるところは削除した」、と本人が言うように、原文とは少し異なるところがあるようだ。(「宮本常一全著作集10 忘れられた日本人」(1971年・未来社刊)のあとがき)。

 

 

宮本常一が、一部の人から創作ではないかと言われたことに対し、憤然として抗議をしたそうだ。

 

しかし宮本の没後から10年後の1991年、高知新聞に「真説土佐源氏」と題して、この盲目の乞食といわれた老人の孫が、「祖父は乞食ではなかった」との記事が掲載された。

それは事実で、老人は盲目で、衣服を荒縄で縛っているので、なりは乞食のようだが水車で粉をひく立派な仕事をしていたという。(木村哲也著「『忘れらてた日本人』の舞台を旅する」より)

宮本が果たしてそれを承知で”創作”したのか、話しの巧みな老人に騙されていたのかは、すでに宮本本人に確認できない今では、その穿鑿も意味がない。しかし、乞食の子孫と呼ばれた肉親にとっては、大事な問題でもある。

 

 

この文章を書くにあって、未来社刊の「忘れられた日本人」(1970年刊)の本人のあとがきを読み返すと、こんな文章がある。

 

「われわれは、ともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向が強い。それで一種の悲痛感を持ちたがるものだが、ご本人の立場や考え方に立ってみることも必要ではないかと思う」。宮本常一のこの言葉を信ずるほかにない。

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車はいよいよ、山奥に侵入し、引き返すのもひと苦労なところになった。

檮原行きの言い出しっぺでありながら、この先みるべきものもないことが分かっているから、「もう、ここいらで引き返そう」と言ってみたが、「あともう少し」というので、津賀ダムを過ぎ、とうとう下津井温泉というところまで来てしまった。

この辺りも四万十川流域と同じ、椎の木が山を覆っている。

人家も少なく、ほとんど人影がない。わずかに下津井温泉の下の河原に、場違いなコテージ風の舞台がこしらえてあって、恐らくここに人が集まるのだろうという推測ができるが、いまは閑散としてむしろ寂しさを際立たせている。

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檮原のへの道は、ここで終わりを告げた。


 

車はいま来た道を引き返し、一路、高知高速道路から高松自動車道を抜け、多度津に向かう。

夕方、Tさんの家に着き、ここでひとまずTさんと別れることになった。

瀬戸内の海に、陽が傾きつつある。

その日は、愛媛県と香川県の県境に近い観音寺に泊まることになっている。

宿は、海沿いの小高い丘を登ったところにある。

部屋に入り窓を開けると、ちょうど夕日が瀬戸内の海に沈もうとしていた。

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