●四国漫遊 その1
◆多度津(たどつ)の海
話は前後するが、四万十川の旅の初日、メンバーのTさんの実家(香川県多度津町)に深夜たどり着き、ひと夜お世話になることになった。
「多度津」という地名は、古代、”多くの人々が海を渡る津(港)”に由来するそうだ。昔は「多渡津」と書いたのだろう。
奈良時代に港が築かれた古い港町で、江戸期は丸亀藩の支藩に当たる一万石の城下町でもある。
Tさんの家は、瀬戸内海沿いの小高い丘を少し登ったところにある。
以前から、絶景の場所にあるとは聞いていたが、朝、目を覚ましてカーテンを開くと、朝靄の中に無数の島が点在している光景に息を呑んだ。
2階の部屋から見た瀬戸内の海(午前5時半ころ)
夜が明けて間もないのに、すでに一艘の小船が、ゆっくりとした速度で、養殖場に向かって行くのが、部屋からでも手にとるように分かる。
瀬戸内海がそのまま、家の借景になっている。
曇り空で、遠方まで見渡せないが、無数の、陰翳のある島々が重なるように目の前に広がっている。
視界の左側に、岸から1本の細い橋が飛び出していて、その先に海に浮かんだように、小さな森に囲まれた神社がみえる。
これだけの景色を目の前にして、寝ている気がしないので、周囲を散策してみることにした。
家のすぐ後ろに山が迫っているので、景観を求めて、ブドウ畑に続く細い道を辿ることにした。
家の前には、わずかだが収穫間近のソラマメや葱なども植えられている。山の斜面には、ブドウ棚のほか、ビワの畑が広がっている。
”のどか”という文字は、こんな景色のところをさすのだろう。
腰を下ろして、早朝の、瀬戸内の海を心ゆくまで堪能。
丘から見える島々は、塩飽(しわく)諸島といい、戦国時代には塩飽水軍が活躍したそうだ。大小の軍船が、島影に隠れるようにして攻め入る光景が目に浮かぶよう。
名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。瀬戸内海の中でも、岡山県と香川県に挟まれた、有人、無人を含めて28の島々から成る。
一番手前に浮かぶ無人島は、Tさんが共有する島で、カヌーでもひと漕ぎでいけそうな距離にある。
丘を下り、今度は部屋から見えた神社に向ってみることにした。
この神社は、津嶋神社といい、年に一度だけ、祭りのときにこの橋の渡行が許されているという。帰ってからTさんに、神社の前に無人の駅があるけどと尋ねたら、「普段は電車は停まらないけど、夏の祭のときにだけ臨時電車が止まる・・」というから、その時期は、かなりの人で賑わうのだろう。
この辺りはもう三豊市になる。浦島太郎伝説があるというのも頷ける、静かで、豊かな浜という印象だ。
海は透き通るように碧い。
神社を後にして、浜づたいに多度津の港に向かって歩いてゆくと、長門や築地塀のある、古く、由緒のある家並みが続いている。
地元の人が書いた在郷風土記に、多度津湊のことを記した「阿波金比羅名所図」の文章がある。
<丸亀の船着より一里余り西にあり。(略)此の津(多度郡)は丸亀に続いての繁昌の地なり。原来波塘の構えよく、入船の便利よきが故に湊に泊る船夥しく、近辺には船宿、旅駕屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、(略)往来絶ゆることなし。且又、西国筋、往還りの諸船の内、金比羅参詣なさんとする徒は此処に着船して、善通寺を拝し、象頭山に登る。略>
多度津は古来より、良港にめぐまれていたので、人の往来が耐えることがなかった。浜に張り付くように並ぶ、この集落を歩くだけで、それは容易に想像することができる。
明治以降、四国で初めて鉄道が敷かれたのも、この多度津の町である。
その日は、目的地の四万十川を目指すため、朝食を済ませ、後ろ髪を引かれる思いで、多度津を後にした。
途中、初めて腰のある本場の讃岐うどんを食す。
◆四万十川から土佐・中村へ
高知県四万十市中村 2009年5月5日
5月5日、本日は悪天候の予想で、急遽カヌーを中止して、四万十川の下流にある土佐中村の市中をぶらぶら歩き、そこから土佐湾に注ぐ四万十川の河口を見ようということになった。
河口を見下ろす高台に、絶景の温泉場があるので、そこでゆっくり湯に浸かる予定。
9時半ころキャンプサイトを出発し、途中、鯉のぼりの吹流しで有名な四万十町(旧十和町)に寄る。五月の青空に、500本の鯉のぼりが、へんぽんと翻っているのは壮観。4月から5月にかけて、四万十川の春の風物詩ともなっている。
これから向かう中村は、土佐湾とはもう目と鼻の先にある、四万十川下流の由緒ある町だ。
かつて土佐の小京都言われるくらい古い町だから、てっきり中村は”市”だと思っていたら、4年前に西土佐市(四万十川流域)と対等合併して四万十市と名前を変えていたようだ。
街中を歩くと、一条神社とか、一条公ゆかりの史跡、それに一条の藤祭りなどのポスターがいたるところに目に付き、町全体が”一条”一色の様子。
しかし浅学なことに、この一条という人物が誰か、メンバーの誰も分からない。
「一条、一条・・」と名前を連呼していたら、なんと一条さゆり(日活ロマンポルノ女優)などという、トンでもない名前が飛び出す始末。
中村が栄えたのは、応仁の乱の混乱を避けた京都の前関白・一条教房が、その所領であった土佐の幡多に逃れ、移り住むようになったことに起因するようだ。
以後、一条家は主(あるじ)として、中村を都に模し、京風の文化を再現したり、祇園神社などを立て、さらに対明貿易を興すなどして、土佐の経営を立て直したそうだ。さらに教房の嫡子・家房が初代土佐一条を継ぎ、土着の大名として繁栄をもたらしたという。時代は15世紀末から16世紀のこと。
500年を経た今でも、一条家の遺徳を称え続けるというのは、土佐人の篤実な気質ということか?
中村に行こうと思いたったのは、先入観としてこの小都市が、いまだ小京都の風情を残していると考えていたのだが、それは遠い昔のこと。
すでに60年数年前の南海地震によって、小京都の町並みは全壊してしまったそうだ。
その名残はかろうじて、東山、鴨川という地名と、碁盤目のような町の区割りだけらしい。そうとも知らず、市内を歩いたが史跡以外は特に見るべきものもない。
昼時だったので、とりあえず昼食をとろうと店を探すが、それすら見当たらない。GWの休みということもあってか、町全体にどこか活気がない。
後で分かったのだが、2日前にこの町最大のイベントというべき、一条藤祭りが繰り広げられていたようだ。京都の時代祭りさながらの公家装束の行列がでて、相当の人出で賑わったそうだ。
当日は、まさに祭りのあとの静けさ・・。
30分ほど商店街を行き来して、飲み屋風の店で鯛づくし(刺身、煮物、味噌汁など)とカツオの刺身で、ようやく土佐らしい食べ物にありついた。
町をぶらぶら歩いていると、白と紫の混色のみごとな花を見つけた。香りも強く、関東では見かけない花だ。傍らにいた婦人に花の名前を聞くと、「カオリバンサイ」というは花だと教えてくれた。
中村は先にも書いたとおり、四万十川が土佐湾に注ぐところ。野田知佑は、四万十川の文章の最後をこう書き綴っている。
<小さな船のエンジンや機械の音がのどかに響いてくると、そこが河口だった。・・・何の劇的なこともなく、あっけなく終わる。川の水は海に出るまで青く澄んでいた。四万十川はすべて山の中にある。>
その日われわれは、河口が見渡せる小高い丘に登って、遥か山中を流れる四万十川を言葉少なく見渡していた。
「四国漫遊その2」 に続く