いつもそうです。
妻がいるときからも、いなくなっても、この日の心づもりは同じです。
大学病院での造影MR検査。
朝、妻の仏前に「お任せします」と祈ります。
もう10数年、すい臓の腫瘍がガン化していないか、大学病院でMRIと血液検査で観察してもらっています。
良性腫瘍、勝手に僕はそう言ってますが、おおきなブドウのような「房」が、すい臓の主管部にぶら下がっています。
画像でその肥大化と、血液中のガンマーカー値を4ケ月単位で観察してもらっています。
3ケ月でもなく。半年でもない。
その微妙な時間感覚が、僕にとっても安心できるか、或いは不安になるかの境目なんです。
10数年前、人間ドックで見つかったときは、「すい臓がんの前がん病変」と言われ、ああ、これで俺は死ぬんだと思いました。
妻は全く無関係でした。
ところがその後、彼女に大腸がんが見つかりました。
妻は痛み苦しみ、僕は何の変化もなく、5年経ちました。
そして妻は命を奪われ、僕は相変わらず大学病院でブドウの房を診てもらっています。
医学って、何なんでしょうか?
今ここに、ガン化する要因がある。
だから、追いかけて10数年、でも変化ありません。
でも一方、何の懸念もない患者がいる。
ところがある日、血便が出て大腸がんが見つかる。
いきなり重篤な状態になる。
そして数年で死ぬ。
彼らはこの両極端な結果を、結果論で片付けるのでしょうか。
ガン化する可能性の大きいブドウの房を見つけても、結果的に死に至らなかったり、重篤にならなければ、ある人にとっては「くその役にも立たない」医学なんです。
それより風邪をひいてもそれが明日の命にかかわるか、おなかの痛みが明日の死につながるか、を判断してもらえるような医学であってほしいと思います。
生きるか、死ぬか。
医学者はこの1点の結果論を、説明できる人たちであってほしいと思います。
何の問題もなかった妻。
健康そのものだった妻。
それを見送った「前ガン病変」を持った、すい臓がんの予備軍の僕。
たった5年で、立場が逆転したことに納得できません。
この検査を受ける季節、四季の変わり目になると、いつも精神的に不安定になります。
僕が先に死ぬべきだった。
そう思えるからです。