山に森。
人もいるのかいないのか、水を求めて彷徨う獣か人かあり。
藪をかき分け、登っているのか下っているのか。
何を頼りに歩いたのやら、棘を避け、穴を飛び越え、水の在処を嗅ぎ分けて、次第次第に連なり重なるその足跡は、やがて一本の細い獣の通り道となった。
細い細いその道とも呼べぬような細い筋を、するする行くと、筋は山道と重なって、ついに眼下に山里を見つけたり。
里に下りて、路地に入り、傍らの井戸の水を汲みて飲み、はたと一息つくや疲れ果てて寝入りたるは人の姿をした獣か、獣の振る舞いを為す人か。すぅすぅと眠りこけたる様はどうやら人のようであった。
夜を一巡りして朝が来て、むくりと起き上がると、人、野良に行きたる里の者たちを見た。しかし人、鍬も鋤も畑も家も、何も持たぬ身の上故に、里で一番大きな通りに出て、また今度こそは直く歩き始めたり。
出で立ち、彷徨えることなく、程なくして、大きな道に出た。軒を連ねたる家、倉、工房、商いをする平屋に門番の立つ屋敷、遠くには花街まで、見物しながら、道はいっそう歩き良し、疲れはむしろ遠のいて、足取り軽く、やがてその大きな道は、都大路となった。都の周りには水が巡らされ、その水を跨ぐ大橋を行く人々の多いこと、往来はまるで早瀬の如く賑わい、人、嬉しくなって正門の側まで駆け寄った。中央に開かれた正帝門の柱の横には、八百年は過ぎたであろう、大きな大きな花の樹があって、さらりさらりと、薄く紅が勝った白い花びらを、橋の上に舞い散らせたるは、仙女たちの泡沫の、そぞろ話に囁く声のようであった。その人、さらに嬉しくなって、門前に腰掛ける、独りの笠を被った者に話しかけた。
「ぬし、なんぞこの花の樹の名を、わしに教えてくりゃせんか。」
笠を被った者はその下に面を伏せたまま、
「われはその花の名のみを知る。櫻と言うはその花の、散り散りに咲き乱れて人の心を惑う故。この門は因んで櫻門と呼び慕い、都の人々よりの誉れとなっておる。」
人、不思議に思えり。何故この者は、まさにこの花の樹の袂に当に座し、しかも、花の名のみを知ると言うのか。さらに、何故この美しき光景をして、人の心を惑うと言うのか。と。
しかし、人、このこと追求せずに、笠の者にお辞儀して礼を言い、都の中に入ろうとしたその時、一列が、都の中から静々と歩いてやってきた。その列の速さは、人通りに比べていささか緩く、事もなげにも儚げに進み行き、橋を渡って都の外に出て行った。
ふと、
「ぼん、あれはなんぞと知りけるや?」
先ほどの笠被りの者が、人に問いかけた。
「知らん。どこか異国の人々のようであったが?」
人、応えた。
「異国、、、然り。あれは冥土に逝く人を、送る人々の為す列ぞ。」
人、驚きもせず。
「そうか。かようの華の都でも、、、」
人、ふと、笠の下の面に視線をやると、その者、盲であることを知る。
そして、その脇に、一本の廃れた琵琶を抱えているのを見た。
「(果て?この者、はじめからこのような古風な琵琶を抱えていたっけか?)」
その琵琶、漆黒褪せて、木肌がのぞくもどこか息吹きあるようで、人、ますます興味入り、
「ぬし、一つその琵琶の音を、わしに聞かせてくれぬだろうか?」
と、笠被りに尋ねいた。
しかし、笠被りは応えなかった。
「 、、、。」
すると、沈黙が風を呼び、ざぁと一陣、頭上の花枝を揺らして、いくつかの花びらが琵琶の黒い面に降りかかった。
それを見て人、はたと気づいて、者に問うた。
「ぬし、この琵琶、弦が張られておらぬようだが?」
者、言う。
「ならば、聴きなさい。」
すると、二陣、三陣の風が豪と吹き、葉の無い大きな枝を揺らし、橋の上を行く人々の衣をバタバタとはためかせた。水面もきらめきながら奔り出せば、雲行き翔て、昼足早に過ぎ夜に至りて直ぐさまに朝が来た。街の灯りの明滅めまぐるしく、昼夜繰り返せば花も去り、気づけば青葉が繁って、おぉ、と、目を見張れば紅くなり、やがてちらちら雪が降り出した。
「これは、、」
人、驚き隠せず者を見た。笠に雪を積もらせて、者は静かに座ったまま琵琶を抱えている。
時、益々勢いあり。葬列は幾度なく都から掃き出でて過ぎ去り、往来はまるで機織られる光のように大路を埋め尽くした。
人、目眩を起こして、気を保つのもやっとの状態で、
「一体、これはどういう、、」
者に尋ねたが、者、そこに既にあらず。笠も吹き飛んだのであろう。ただ弦の張られていない琵琶だけが、立っておった。
ついに人は意識を飛ばして、視界を失った。
・・・。
鼻腔に触れる潮の香で、若者はパチリと目が覚めた。
起き上がると、夢の名残をサァと吹き飛ばすような、陽光に照らされた。
「ここは?」
まぶしさ故に半眼に、まぶたをゆっくりひらいてゆくと、果てしなく広がる暗い紺碧の海の向こうに、銀灰の雲を割って降り差す光芒があった。風がただ、頬を少し厳しめに撫ぜ、若者を顧みることなく吹き抜けた。髪の毛の隙間から足下を見ると、遠く波が砕ける音が届いた。若者は、その崖に座り、手を後ろについて、空を仰いだ。その側には、異国の螺鈿飾りを施された、漆黒の琵琶が横たわっていた。
後記
これが、私がお不動さまから聞いた物語の一つである。
この時の琵琶は、後に虚空蔵と呼ばれる菩薩であり、またこの時の若者は、不動如来の若き日の姿であったと。