「綺麗な夜景ね・・・。」

 

 少し話し疲れたのか、ふいに大きなおもちゃ箱をひっくり返したかのような光の糸の色彩を眺めるトモコです。

 

 つられて目線を追う私に、こんなことを口走ります。

 

 「ねぇ、レインさん、アタシ、30過ぎたけど、まだレースクイーンできるかなぁ。」

 

 悪戯っ子のように、フフフと微笑む彼女です。

 

 「全然、大丈夫じゃないの。まだ見た目も実際も若いしさ。」

 

 「そう?嬉しいなぁ。」

 

 少女のように、無邪気に笑う彼女です。

 

 「でもさ、ノイローゼになるって大変らしいね。どんな感じになるのかな。」

 

 率直に疑問を口にした私に、彼女は話を再燃させるかのように目を剥きます。

 

 「もう最悪だったわ・・・。何度か家出もしたけれどね。実家に戻って、ベッドにくるまってても、ぼんやりとした不安じゃないのよね。全ては、あの人の事ばかり思い出してさ。嫌いだったり憎んだりできれば、そんなには悩まなかったと思うんだけどね。なんで、アタシは愛した人と愛のある家庭を築けないんだろう、全ては彼のもう一つの家庭が原因だったと思うのよね。」

 

 「じゃ、彼にはっきりと言えばよかったんじゃないのかな。」

 

 「言ったよ。貴女の家庭のせいで、それだけのせいで、アタシはこんなにおかしくなっているのよって。」

 

 「そうしたら?」

 

 「黙って何も言えないだけなのよね。でも、アタシがこんなにもメンタルを病んでいれば、勿論、優しいから凄く心配はしてくれたよ。でも、娘の高校進学の方が大事なのかと想像すると、なんだか無意識に指先が動き出すのよね。」

 

 「指先が・・・?」

 

 「そう指先が、どういうわけか昔やっていたバイオリンを虚空で小さく弾いているのよね。」

 

 「バイオリンをやっていたんだ?」

 

 「そうレインさんには話さなかったかもしれないね。アタシ、お母さんの影響で5歳の頃からバイオリンをやっていたのよね。自分で言うのも恥ずかしいけれどさ、子供の頃、有名な先生から弟子に欲しいって言われたこともあるんだよ。」

 

 なるほどな、単純だけれども独特な鋭い感受性と普通とは違った発想なんかに、私は妙な才能のようなものを彼女に感じていただけに、きっとバイオリンにおいても壮烈な才能を示したのではないかと得心したのです。

 

 彼女の話によると、バイオリンというのは早期による目覚めというのが必要で、7歳以降で始めてプロになる者は少ないとのことです。

 

 中学受験に集中する時期には、多くの才能ある者が辞めていく中、当時の彼女は天賦の才に抱擁されていたのか、お母さんとの二人三脚だったが余裕で乗り越えたといいます。

 

 12歳にしてメンデルスゾーンの協奏曲を弾けるようになり、15歳、最も演奏技術が進歩する時期に、有名な先生に見込まれることになります。

 

 大変な才能だ、先生は両親にそう語ったといいます。

 

 しかし、その2年後、彼女は厳格な音楽教育に対する反動から放蕩の道を選ぶことになってしまうのです。

 

 確かに人並み以上の努力というか練習はしてきたけれど、それは子供の頃からの習慣の延長だった。

 

 人生を縛り付けるような厳しい修行は、彼女の性格からして、何の道であれ、才能とは別の意味で成し遂げがたいものがあったのではないかと思われます。

 

 しかし、私が感銘を受けたのは、その弦楽器の有名な先生のお弟子さん、彼は当時音大を卒業して映画製作の仕事をしていたそうなのですが、その彼が自分の会社のホームページに、先生の元を離れる少女時代のトモコをモチーフとした、「バイオリンの少女」と題する短い映像的作品を作りあげたという話です。

 

 これは、背景に音楽を流し、幻想的な写真をふんだんに使っていた短編映像なのですが、内容は、若き頃、天才バイオリニストと将来を嘱望された男が、その後、事情あって廃業する。事情はあえて描かない。

 

 貧しい独り身の生活のなか、生活のためにバイオリン教室を始めるが生徒はやってこない。

 

 そこにお母さんに手を取られてやってきた小学生の少女・・・。初めての生徒・・・。

 

 彼女の指先をみて、天賦の才を感じ、生き甲斐のようなものを感じ、往年の情熱が蘇り、彼女の指導に妖しい期待を抱くという話です。

 

 自分の生き写しのようなものを感じ、すべてに生活が充実する彼ですが、高校1年生で彼女は受験勉強のためバイオリンをやめてしまう。そして、やがて彼もまたバイオリンの世界から身をひくことになる。

 

 それから、10数年後、彼はそれなりに普通の人生を送ることになるのですが、夕暮れの都心の片隅で、一人の女性に声をかけられる、誰かと思ったら、それは10数年前、彼のバイオリン教室に数年間通っていた少女であることに気づく。

 

 彼女は乳母車に幼児を連れ、先生、お久しぶりですね、そんなシーンで終わり、彼はそれでもあのときの少女の黒髪を平凡な主婦になった彼女のなかに見いだすという話です。

 

 商店街の夕暮れは、セピア色に染まり、幻想のなかの少女が彼に微笑みかけるというようなシーンで終わるわけです。

 

 トモコをモデルにした、そんな空想絵巻のホームページ宣伝用の動画まで出来たそうですが、少女の黒髪を乳母車の平凡な主婦になった

彼女の中に見出す・・・。

 

 それは同じ音楽を志す者の、辞めていく彼女のその後に対する一種の願望だったような気がします。

 

 現実のトモコは、バイオリンを辞めて10年後、精神病院のベッドの上で悶死するかのように苦しんでいたのです。

 

 「途中で、バイオリンが嫌いになってね、なんか自由になりたかったような気がしたのかな。でもさ、なんで狂死しそうなときに伴奏するかのように音色が聞こえてきたのかしらね。」

 

 それから、実家の両親の勧めで心療内科を訪れることになるのですが、双極性障害と希死念慮がひどくやがて閉鎖病棟へ・・・。

 

 暗い病室で、絶望と嫉妬の炎に苦しみながら、無表情に虚空のバイオリンを弾く彼女の姿を想像すると、なんだか肌寒いものを感じたものです。

 

 そして、病室で離婚を決意する。死ぬほど悩んだ苦しみも、いざ正式に別離となると、妙な淡泊感を脳髄に得たといいます。

 

 その頃ですかね、私宛に久しぶりの電話を寄越してきたのは。

 

 しかし、話を聞いていると、退院する頃、色々な人に電話やメールで連絡していたことに気づきました。

 

 どうも、過去に知り合った男性に、片っ端から連絡していたようです。

 

 

人気ブログランキング