一方通行的な自分話に夢中になる彼女は、しばらくフォークを置いたまま、眼下に広がる夜景にも目をくれなかったものです。
その晩、語った彼女の自死までをも考えた身の上話というのは、次のようなものでした。
恵まれた上流家庭に育った彼女は、横浜の住宅街で3年前に結婚するまで両親と弟の4人で生活していたといいます。それまでに、自立したことはなく、全てを親任せにしていたという。
中学校から短大まで一貫性の女子高で思春期を過ごしたものの、高校に入学するまではバイオリンをやっており、幼い頃にはその道の泰斗から将来を嘱望される程の才能を示したといいます。
実人生と違って、個性的な演奏というよりも地味で誠実な芸風には、両親を始め周囲の期待を一身に集めたが、なぜか途中で弦を放擲してしまったといいます。
才能の限界を感じたといいますが、バイオリンを辞めた頃から、少しづつ過激で独特な利害計算に基づく嫉妬深い性情がきわだってきたようです。
彼女のトレードマークでもあった嫉妬深さというものは、可愛い少女がそのまま大人になったような単純明快なもので、それを隠さない、いや隠せないところが賛否両論的な正直で面妖な魅力でもあった。
短大卒業後、有名な観光会社に入社するも、まあ頷けたところですが、先輩女性たちからのイジメに合い、一年で辞めてしまう。その後、職を転々とするが、どこへ行っても、男性からはそうでもないが女性に疎まれることが多く、やがて歌舞伎町のイメクラ店「フラワーズ」に辿り着く。
この当時は、バックに半グレのような恋人がおり、彼女が風俗で得た収入を借り出しては行方をくらましたというエピソードもあった。怒った彼女は新幹線に乗って、その元カレの田舎の実家にまで赴き、両親の前で、彼の素行の悪さを伝え、借金額を取り立てたという。
社会人になってからというもの、なにか目に見えない力が働いて、神様がアタシを堕落の道へと誘うような感じがして怖かったというが、これは少女時代からの家庭環境、両親の育て方にも原因はあったのでしょうね。
彼女は比喩的にその頃の心情をこんなふうに語っていたものです。
暗い深夜の大海に突き当たり、誰もいない漁場の物置小屋で凍えるように独り不安に怯えていたときだそうです。
ただ、じっとしているうちに、水平線の向こうから茫漠とした陽の光のようなものが視界に浮かんできたといいます。
太陽だわ、独り声をあげる彼女でして、やがて暗い大海には燦然とした陽が降り注ぐわけでして、風紋に奇妙な文字が浮かび上がっては見えてきたといいます。
愛・・・。
砂浜には、大きな愛の一文字が、明るい太陽に照らされていた・・・。
その頃だそうです、彼女が人生において最大にして最愛の男性と出逢うことになるのは。
その男性は、そっと優しく彼女の疲れて閉ざされた心のドアをノックしてくれた。
そのノックの音とドアの向こうにいた男性を見たとき、彼女は絶えて久しい運命の交響曲を聞いた感じがしたといっていたものです。
歌舞伎町での風俗嬢生活を約2年間送り、その後地元の自動車部品工場で働きだした先の上司が、後に亭主となる雄一だったといいます。
元特殊な風俗嬢だとはいえ、さほどのキャリアがあったわけでもなく、元来、お嬢様育ちのトモコは貞操観念が強く、愛した男には一途に尽くすところがあり、決して浮気はしないタイプだったと思います。
ただ、男性の下心には研ぎ澄まされた動物の本能のように敏感で、同時に男性というものを性愛というフィルターでしか見れなくなってしまった点が、私には幅のない一本の直線のように思えたのです。
20代後半のトモコより、雄一は一回り年上で、地元の高校を卒業後、ずっと真面目にその工場で働いており、社長からの信望も大なるところだったといいます。
初めて会った頃は、あれほど性格の良い男性は初めてみた、そしてあれほど一人の人間として愛したのは初めてだったとも語る彼女です。
すぐに結婚と相成り、二人は雄一の住まいである公団住宅で新婚生活を始めます。
少女時代から、まったくもって金に苦労したことがなく、何よりも華美なるものを愛してやまない彼女が、雄一の安月給と公団住宅生活に耐えられるのは時間の問題だったようですね。
しかし、優しい雄一は精一杯の金銭的努力を惜しまなかったようですが、それにも限界がある。
彼女の脳裏には貯金という観念がないのか、海外旅行が好きで、物欲が並みの女性の倍以上はあった。家事も苦手な方で、それよりもファッションや旅行は勿論のこと、貴金属に300万円近くもかけ、離婚後その所有権を巡って争うことになります。
清貧な育ちの上、勤勉で節約家の雄一にとって、汗水たらして蓄えた虎の子の1000万円が、いつの間にか風前の灯になっている。
東南アジアなど南国特有の金銭感覚とも違っていた、要するに彼らはお金を勤勉の結果とは考えない、天からの贈り物で幸運に満ちたものだ、だから皆で分け合うものと考える傾向が強いが、彼女の場合、そんな陽気なところはなかった。
ただ、自分の欲望を満たすために、お金は誰かがどうにかしてくれるものだという考えが根底にあり、要するに雄一とは生まれも育ちも違ったということだ。
一年もするうちに、雄一は悲鳴をあげだした。
しかし、彼女にも言い分はあった。
女なら何よりも愛を選ぶわ、そんなこともいっていた彼女ですが、同時に、愛の最大の障壁になるものも愛であるともいっていた。
つまり、雄一の場合、バツイチでして中学生になる女の子と小学生の男の子がいて、親権は別れた元妻にあるものの、時々二人に会っては、冬眠から目覚めた亀のように生の歓びを爆発させる。
当初二人のスィートルームである公団の住まいにまで、子供二人が最愛のパパに会いに自転車でやって来たこともあるという。
自転車で片道一時間もかけてパパに会いに来た彼らに、愛想笑いを浮かべて、ジュースを差し出したりするアタシは何なんだ、不思議な劣等意識に包まれたような嫉妬に身を焦がしたという。
その後、子供がスィートルームにやって来ることはなくなったが、定期的に子供達と会うことだけはやめられない雄一だったそうです。
夜遊びも深酒も無駄遣いもしない無趣味な雄一が、いそいそと子供と会うために玄関口を出ていくたびに、トモコは嘆息し、辛い思いがその回数とともに加速度的に増していったという。
そして、決定的な事件が起きる。
長女の高校進学に際し、雄一が別れた元妻と話し合いの場を持つと言い出したのだ。
俺に似ず、成績優秀な娘だ、少しでも良い学校に進学させたい、そのために頑張ってきた娘なんだ・・・。
それでなくとも、嫉妬深い彼女がどのような態度に出たかは容易に想像できるところです。
別れた妻との関係は、頻繁に彼女が行う彼の携帯チェックでかろうじて割り切っていられるが、子供二人の姿に限りない家庭的愛の原型を見るような気がする。
もちろん、それはアタシとの愛じゃない・・・。
新居を構え、雄一との愛が深まれば深まるほど、雄一を抱擁するもう一つの自分が知らない愛が入道雲のように彼の背中に漂い立つような気がしてくる。
アタシになくて、彼にある不平等な愛の世界・・・。
結婚して、一年半が経つ頃、彼女の精神には、はっきりと分かるような異変が生じます。
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