当時から思っていたことは、人間の幸というものの本質についてです。
経済に恵まれ、社会的に優越し、酒色の限りをつくして・・・・。
ちょっと違うかな、なんとなくですね、この物語進行時点、成長の遅い私自身にもおぼろげながら、幸の輪郭なようなものには夏夕の虫のねをきくかのように微かに気づきだしていたようなところがあります。
人間の幸というのは、毎日の充実・・・・。
早く明日になればよい、これは昔の有名な大学総長が座右の銘にしていたそうでして、今日一生懸命研究活動をした、早くこの研究活動の続きをしたいのだが、もう寝る時間だ。早く明日になって、この研究活動の続きをしたい、だから早く明日になればよい。
別にこれは研究活動だけにいえることでもなく、日常の仕事や愛する彼女彼氏との触れあいの続きに、こんなふうな感情をいだければ、これこそがホントの幸せといえるのでしょうかね。
山田の親父代わりであり、少年時代からの手裏剣の師匠でもあった、最愛のちゃんが亡くなり、7月下旬に彼が東京に舞い戻ってきてからです。
しばらくして、彼は、六本木の麗子の店に久方ぶりにカオをだします。
それからですかね、今度は本当に山田と麗子との間に紆余曲折した感情にひとつの方向線が定まったような気がしたのは。
お見合いセンターで知り合い、男女の本能を意識的に度外視した、無粋の輩に強制された付き合いから、やがて妙な友情に変化して、そして、心と心とが本当に重なり合うようになった経緯。
しばらく、恋してやまない麗子の元から離れていた彼でして、その理由を告げたとき、それは、彼の父代わり、ちゃんの遺言が麗子の胸に届いたのかもしれません。
二人は真実の恋人同士になります。
それからの山田の日々の活動ぶりには青竹のように陽に真向かうものがあり、職場でもプラスアルファ的、限界を超える頑張りを示しだし、生き生きとした躍動には、ワタシ自身が、よく彼から人生的説教をうけたものです。
そして、休日・・・。
彼は、以前にワタシが紹介した杉並の居合の道場に毎週通うようになり、手裏剣を放つようになります。
それは、あの先生からの招聘によるものが多かったそうですし、麗子からの喝采に動かされたという事実もあったようです。
一度、彼はこんなことをワタシにいったことがあります。
「麗子さんもレインさんもさ、ホントに恵まれた青春を過ごしてきたと思うんですよね。」
「・・・・・。」
「レインさんが親の庇護のもと、受験勉強に励み、麗子さんは多分、生徒会の副会長とファーストキスの甘い恋を互いの人生最高に興奮する瞬間を実現できていた・・・。オレは何をしていたかと思いますか。」
「何をしていたんだい。」
「初めてヒトを好きになってね。毎朝バスの中で見かける同じ高校の一つ下の女。生徒数が少ないから目立ったのかな。放課後、川沿いを追ってさ、告白したんですよね。新緑が渓流を覆う時期だったかな。」
「へぇ。少なくとも、当時の俺よりは勇気があったんだから、いい思い出だったんじゃないかい。」
「でも、オレは正直で小心者でしょ。興奮がおさまらなくてね、コトバの強姦になっちゃったんですよね。」
「コトバの強姦・・・?」
自嘲気に笑う彼です。
「それからね、毎晩、暗い部屋で、泣きながらさ、射精をしては、それと同じくらい段ボールを的に一晩中、手裏剣を打っていたんですよね。狭い部屋だけど、おふくろは気づいて気づかないふりをしていたのかな。」
「恋は人生一度しかないと思っていたんだよな、それは、俺も同じだよ。」
「でも、レインさんは、恵まれた家庭だから、身近に親父がいたわけでしょ。道を外さないように指揮してくれるヒトがさ・・・。オレはあれから万事やる気がなくなってね、ちゃんの紹介で高校卒業後すぐに上京して働き始めたのは、そういう経緯もあったんですよね。」
いずれにしろ、ほんの一瞬の流星の時期だったかもしれませんが、麗子との間に人生の充実をスパークしたのはその時期のことでして、何ヶ月かの間、早く明日になればよいと口ずさんでは寝床についていたかの感じがします。
愛情に飢えた少年時代、そして過激に純情すぎるがゆえの失恋の恥辱的象徴なような手裏剣でして、上京して二度と手に触れるまいと思っていたそうです。
しかし、なぜか麗子からの後押しのようなものがあり、再び手にすることになったわけでして、皮肉なことに、己の恥部をさらけ出すかのような手裏剣が、彼女のハートを得んとするかのような期待を抱かせるわけですから不思議な話です。
そんなに彼女が歓ぶ、自分の特技であるのならば・・・・。
幸色の追い風が吹く彼の膝元に、その手裏剣術は、風にのっては、凄まじいまでの人生の逆転ホームラン的機会をもたらせることになるのだから、人生は面白いものです。
そして、麗子との関係においてもです。
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