私は小4の時サッカーを始めました。私にとってサッカーは勉強と同じくらい、大切で、行けば行くほど深くて、心の底から惚れてるものです。
 この夏、中国北京でオリンピックが開催されるのにあたり、私はサッカーだけでなく、様々なオリンピック競技、そしてその選手の報道を耳にしました。その中でも特に頭にかじりついて離れないのは、数々の選手の引退報道です。
 期待や古傷や不安くらいでは言い切れないものを背負って北京まで歩んでいった彼らに向かって、引退の重みを否定することなんてできません。それは、私はまだスポーツの厳しさをちっとも分かっていないと日々感じるからです。それでも、私にとってショックで仕方なかったのは、試合に敗れてメダルを逃したある柔道選手の一言「もう自分が帯を締め、畳に立っている姿は想像できない」という言葉でした。私は正直、こんなに悲しい言葉はないと思います。今までずっとしがみついてきたスポーツを、オリンピックを機にいきなり手放してしまえるものなのか?これで全くやめてしまうというなら、一体何のためにスポーツをやってきたのか?私には、疑問であると同時に、とても他人事とは思えませんでした。考えてみれば、私だって同じだからです。
 私はもしかしたら、大学への進学を機に、もしくは就職を機にサッカーをやめてしまうかもしれない。そしてサッカーだけに限らず、今必死でしている勉強すら、仕事に就いたらやめてしまうかもしれない。ほとんど忘れてしまうかもしれない。それは規模が違うだけで、私にとって、また私達にとって、確かに、大きな「引退」なのではないでしょうか。そう考えるうち結果的に私の中に残ったのは、「やがてやめるなら、一体何のために私は今、サッカーや勉強をしているんだ?」という疑問でした。これは、目的が明確でないものに対する無意味感ではなく、私が今までやってきたこと、そして今やっていることに対する、自分へのただ純粋な疑問でした。
 この疑問を感じながら、私は元サッカー日本代表選手中田英寿のことを思いました。私は彼もまた、サッカーの目的、そして人生の目的を真剣に考えた人だと思っています。
 彼が、2006年ドイツW杯の際引退を表明したHPの文章に「人生とは旅であり、旅とは人生である。」「プロサッカーという旅から卒業し〝新たな自分〟探しの旅に出たい。」とあります。〝サッカーが人生の全てではない。サッカーも、自分を高めるための1つの手段であり、「今」という人生の一部にすぎない〟それが彼の主張なのではないかと私は感じました。
 私は一度、引退後の中田を追ったドキュメンタリーをテレビで見たことがあります。以前、彼はHPの中で「人生の目標は世界中の国を訪れる事。そして、出来る限り多くの友達を世界中に作る事」と書き記していたそうですが、このドキュメンタリーの中で、中田が初めて訪れる地で現地の言葉を交わしながら、小さな男の子たちと笑ってサッカーをしているシーンを見て、私は、「あぁ、サッカーってこういうものなんだなあ。」と思いました。中田は、世界各国の言葉の勉強、そしてサッカーを通して、「世界中に友達を作る」という人生の目標を日々、かなえているんだなぁと私は感動しました。
 中田と世界数カ国語、そしてサッカーとのかかわりを知って学んだのは、〝何かの目的とは、それを知って得たこと、そしてそれによってかなえようとしていることの中にこそ見い出せるのではないか〟ということです。私にとって、勉強とサッカーを今していることの第一の理由は、それが大好きだからです。しかし、その第一の理由と同じように大切なのは、今勉強とサッカーが私に何を与えてくれたかということ、そして勉強やサッカーによって何をかなえたいかということを、いつも必死に考えようとすることではないでしょうか。確かに、今の私にはまだ、サッカーや勉強が与えてくれたもの全てに気づくことはできないかもしれません。それでも、ただ好きだからという気持ちだけでなく、自分を高めようという意思が、これから進路を決めていくにおいて、そして何より今を歩むのにおいて、必要なのではないでしょうか。

 私達が今、必死にしていることは何でしょうか。それは、私達が本当に好きなことでしょうか。それによって自分を高めたいと心から願っていることでしょうか。
 私達が何かをする目的や意味は、きっと強制されたものではないはずです。今何で私はこれをやっているんだろう?なんのためにしているんだろう?という疑問は、今こそ自分に問う価値があるものなのかもしれないと、私は感じています。
                                      raimu