『当たり前』という言葉が持つ危険 | 大野芳史の、とりあえずやってみた

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飛び付いた情報に対して、とりあえずなんでもやってみるところから始めるブログです
目標は、自分の人生のアウトプット
人生に自分なりの情報と解釈を加えて分かりやすく伝えることで、自分の人生をより明確にし、伝えていければと思っています


こんにちは、
大野よしです


『当たり前』


この言葉を一生使うことをやめようと思いました




『当たり前』の定義を調べてみると、
下記のように出てきます

①だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然なこと。また、そのさま。 「困っている人を助けるのは-のこと」

② 普通と変わっていない・こと(さま)。世間なみ。なみ。 「 -の人間」 「 -にやっていたのでは成功しない」

//大辞林 第三版より引用//



先日、人と意見が衝突した際に、
原因を探っていたら
それぞれの持っている『当たり前』の定義、解釈があまりにも解離していたという出来事がありました


この当たり前という概念
考えてみると
インターネットなどによる情報の解放(誰でも自由に情報を好きな場所から好きなように取得できるようになること)
がなくなるはるか前の概念であり、

昔の村社会、つまり数十人~数百人のコミュニティであったり

テレビやラジオ、新聞がほぼ唯一の情報媒体であったりで

自らの意思で情報を“探す”ことができなかった時代における、その中での大多数な意見を表す言葉なのではないかと思うのです



なので
現代で、それぞれが各自の意思で情報や考え方を学び、解釈し、確立させていく中で
当たり前という概念、言葉そのものを使うことに無理があるのではないでしょうか?

(もちろん、集団生活することにおいて守るべき事柄等はありますがそれは『ルール』と解釈します)



さらに踏み込んでいうと、それぞれが当たり前という考えを持ってしまうことによって、
それはただ対立と衝突しか引き起こさない危険な言葉ではないかとさえ思えてきます



つまり、
私が言いたいこととしては

当たり前、という概念を持つこと自体
今の時代では相手に対するリスペクトや理解がないということになりかねない危険性が含まれているということで、

当たり前じゃないか!
と会話の中で発言することは非常に危うい可能性を含んでいる、ということです


そう、そんな危険性を感じたので
私はこの言葉を使うことをやめることにしました


誰もが意見や考えを持つ時代に
相手の考えや主張をこの意味のない言葉で否定するような人間にはなりたくないのでね