来福堂の黄昏奇譚

来福堂の黄昏奇譚

掌編小説を中心とした、個人的なメモです。





下町の路地にひっそりと喫茶·迷い猫は佇んでいた。ドアを開けるとカウンター前の椅子には丸々とした猫。はじめは店に猫は居なかったらしい。まずは迷い猫という名前が先、そこに猫が迷い込んで居ついたとか。

清花と春斗の出会いは、クリームソーダがきっかけだった。先にカウンターで清花がクリームソーダを飲んでいる処へ春斗が来店し、ふたつ開いた席でクリームソーダを注文。お互いに目があって、ちょっと笑いあった、それがはじまり。

店で顔を合わせるうちに、いつしか春斗の席は清花の隣になっていた。ふたりだけの逢瀬のひととき。そうして清花は春のように暖かなこの男と生きる事を夢に見るようになった。それは男も同じだった。

清花は家は古くから祭祀や占いや呪術を行う家系の長女で、清彦という弟が居る。弟はまだ若いが実力もあり、次期当主には相応しい器があった。だからそろそろ、自分の行ってきた、ある任務を任せようかと考えはじめた。

要するに、隣県にある山に暮らすあやかしの護りなのだが、心配事があるとしたら、そのあやかしが女であるという点だった。

清彦は美しい青年であった。涼やかな切れ長の目、形よく通った鼻筋、きりりと結ばれたくちもと。洋装より和装の似合うその姿は、いかにも、いにしえの女あやかしの好みでもある。

けれど、それは杞憂だろうとも、清花は考えた。清廉でまっすぐな男だから、きっと礼節をもち仕事を遂行してくれる筈。しかし、清彦はあまりにも優しすぎた……

春まだ浅い山を、清彦は進んだ。白き衣に浅葱の袴、髪をひとつに結び、山を行く姿は、木々の間を吹き抜ける風のようでもあった。

しかし慣れない山道でもあり、木の根に足を引っ掛けて捻ってしまった。うずくまり、痛みを堪えているところへ、馥郁たる梅の香りが清彦を包んだ。

清彦が顔を上げれば、目に飛び込んできたのは、長い銀髪に燃えるような赤い瞳、白い着物姿の優婉な女の姿。

「ひねったか、見せてみろ」と女はしゃがみ込み、清彦の足に手を当てた「折れてはいないし、大丈夫なようだな」と女が言ううちに、みるみる痛みはひいていった。

「ありがとう、おれ、いや私は……」

「堅苦しいのは要らん、俺でいい」

「俺は清彦、姉に代わり、この度、この山の護りを仰せつかり、酒と供えを持って参りました」

「それも堅苦しいな。普通にしろ。それに毎度、ご馳走は有難いが、少し飽きてきたな……」

「そうか、では、自分用に姉のこさえたぼた餅をもってきている、お茶もあるし、おやつにしないか」

その言葉に女は瞳を輝かせた。

山の少し開けた場所でふたりは並んで腰掛け、ぼた餅を食べた。保温瓶から注がれた緑茶が湯気をたてた。「さぁ、どうぞ」と差し出す清彦の目は柔らかに笑っている。

「うまいな。もう、豪華な馳走はいらん、こんなのがいい」と艶やかな姿とは打って変わった無邪気さで女が笑う。

「うまいだろ。姉が作ったんだ」

「こんな美味い菓子が作れるなら、鯛の尾頭つきなど要らぬのにな」

「では姉にそう伝えてえおくよ。ところで名前をきいていなかったな」

「梅の香という。よろしくな」

「確か、そんな名前の煎餅があったな」

「おお、煎餅か、しょっぱい物もいいな」

「では、次に持って来てやろう」

「楽しみにしているぞ」

次の約束に益々の笑顔になる梅の香を見て、もっともっと笑顔が見たいと清彦は願ってしまった。

礼節をもって、距離をとってと姉は言っていたが、これが俺なりの礼節なのだと考えながら。

清彦が帰宅すると、失礼はなかったか姉は訊いてきたが「穏やかな方でした」と答えると安堵していた。

間隔を開けずに清彦は梅の香に会いに行く。スーパーのビニール袋いっぱいの菓子をもって。それを見た梅の香の喜ぶ顔。

「美味いな、梅の香巻き。梅の酸味と海苔の風味が合うな。流石は私の名のついた煎餅だ」

「気に入ってくれて何より」

「これもいいな、雪の宿、甘じょっぱいのが癖になる。これは、どんなあやかしからの名だ?」

「……えっ、雪女かな?」

「じゃあ、この、ほわいとろりーたとやらは?」

「たぶん、西洋のお姫様かな?」

「こんなので良かったら幾らでも持って来るよ」

暖かな春の日溜まりに、梅の香りが満ちる。

それからも様々な梅の香の喜びそうな手土産を持って、清彦は山に通った。その顔を見るなり、梅の香は満面の笑みになった。山の護りは至って順調だと、清彦も姉の清花も思っていた。

いつもの日溜まり、地べたに座る清彦に梅の香は寄りかかると、その白衣に顔を埋めて匂いをかぐ。

「お前はいつも、清らかな香りがするな。薄荷のような香りだ。心も体も美しい」

「そうか、俺には何も匂わないが」

「これはお前の魂の匂いだ。私にはわかる。お前の姉は伽羅の香りがした。そういえば、姉は元気か」

「幸せにやっている。恋人がいる。きっと一緒になるだろう」

「なるほど、だから最後に会った時、発情した匂いがしたのか」

「梅の香……弟の俺に姉の生々しい恋愛事情を聞かせないでくれよ」

「幸せなのだろう。ならばいいではないか。私も幸せだ、この匂いをずっと嗅いでいたい」

「そうか、薄荷の匂いが好きなんだな」

山を吹き抜ける優しい風が、梅と薄荷の香りを混ぜる。その香りが梅の香の長い孤独を満たしていった。

梅の香りの移り香を纏った弟が帰宅した時、清花はふと、不安になった。真っ白な紙に落ちた、一点の染みの様な予感。

「清彦、あの方とは距離をとりなさい。礼節を保つのですよ」

「分かってますよ、姉さん」と清彦は爽やかな笑顔を見せたので、一旦は安堵した。いや、安堵したかったのだろう。

程なくして、たくさんの薄荷色の菓子の箱を携えた清彦が山を訪れた。

「チョコミントのお菓子を持ってきたぞ。こっちのクーラボックスにはアイス、つまり氷菓がある」

「ちょこみんと?」

「要するに薄荷の香りの甘い菓子だ。梅の香はこの香りが好きだろ?」

「ああ、大好きだ」

本当に美味そうに梅の香はそれらを喰らった。その姿は愛らしくて、でも時々、色っぽくて、清彦は見飽きなかった。

「ああ、お前の香りで私が満ちてゆく、お前を喰らうているようだ」そう言いながら清彦を見る梅の香の目が熱を帯びている。

「お前も、隅々まで食らいつくしたいくらいだ」

その言葉に清彦は抗える訳もない。

「ああ、いいよ、好きなだけ……」

そう言って梅の香を抱きとめた。

その時、午後の光、いつもの喫茶店で恋人と談笑していた清花は、胸騒ぎを覚えた。しかし、目の前の男の春のような笑顔に、すぐにそれは溶かされた。

幸せは繊細な硝子細工のように、容易く壊れてしまうものだと、後から気づくのだけれど。

その日、清彦が家を出れば、梅の香が姿を現したので驚いた。

「こんなところまで、どうしたんだい?」

「お前の言っていた、めろんぱんとか、揚げ饅頭とかを食べにきた」

「それなら山に持って行ったのに」

「そうじゃない、お前の過ごす町で、お前と食べたい」

「そうか、じゃあ、デートしよう」

「でーと?」

「逢引きだよ」

梅の香は嬉しそうな顔をするも、少しもじもじする。

「この髪と目では、目立たないだろうか?」

「大丈夫だろ、もっと派手な髪色の人間もいる。目もカラコンだと思うだろ。人の多いところへ行けば逆にいいよ」

「そう言えば、今日は袴じゃないんだな」  

「私服だ。さあ、行こう」

清彦は梅の香の手をとって走り出した。

デートと言っても、まだ若い清彦ゆえに他愛のないものだった。

まずは格好を変えた。レンタルの着物屋でブラウスにレース地の着物を合わせ、帯を花のように結んで貰って、ヘッドドレスをつけた和洋折衷スタイルの梅の香は人形のような愛らしさ。

2人で手を繋いで歩いて、食べ歩きをする。メロンパンを頬張る梅の香を、ただ幸せにしたい、と清彦は切に願った。

花屋敷で小さなコースターに乗った後、賑やかな通りで店をひやかすと「お前はきっとこれが似合う」そう言いながら梅の香が浮世絵柄のシャツをちょっと清彦の体にあててみる。

「派手過ぎないか? 何処で着るんだ?」と清彦が躊躇するも「お前は男前だから何でも似合う」と梅の香におだてられて、つい、買ってしまった。

「疲れたろう、ひと休みしよう」そう言って2人で入ったのは古い喫茶店、町に夕暮れが迫る。

清彦が珈琲をオーダーすると、梅の香は同じ物がいいと言い張るから、ミルクと砂糖をたっぷり入れてあげた。

「そろそろ、山にかえるかな」と窓の外を見て梅の香が言う。

「じゃあ、送って行こう」と清彦。

「私はひと飛びで帰れるぞ」

「いいさ、ゆっくりドライブデートしよう」

「そんな事したら地の果てまで行きたくなる」

「いいよ、地の果てまで行こう」

「今日はやめとく……」

「そっか、じゃあ次、どんな物が欲しい?」

「お前だ……」

「いいよ、梅の香が飽きるまで側にいてやる」

そのまま手を取りたくなるのを梅の香は堪える。

「……やっぱり、おやつでいい」

「じゃあ、何がいい? メロンパン? 芋羊羹?福寿家の彩り豊かな稻荷寿司?」

「どれもいいな、いや、もう充分堪能した。甘くて華やかな物がいい」そう言い遺して梅の香は帰って行った。

(最後だからな……)と清彦に分からぬように独り言ちながら。

家に帰ると清花が凄い剣幕で清彦に詰め寄った。

「お前は自分がした事が分かっているのですか!」

「梅の香が来たからお相手をして、お返ししただけですが」  

「この周辺で熱発する者が相次いでいます。例えば、スギライトなどパワーの強い石を持つと耐性の弱い者が体調を崩す石酔い、あれのような物です。あの方のお力にあてられた者が多数出てしまった。まぁ、じきに熱は下がりますが。あの方は人里におりてはらない、だから山に籠っていただいているのです」

「では、私から頻度をあげて会いにいきます」

「そうすれば、ますますあなたが恋しくなるでしょう。それに、もう遅いのです」

「……遅いとは?」

「あの山は、あの方が出られないように幾重にも厳重な結界を張っていた。それを容易く越えてしまった。つまり、もう我々にはどうしようもないお力を持っていながら、今まで我々に付き合っていてくれた。その均衡が壊れたのですよ」

「じゃあ、俺を差し出せばいい。山に、籠もります」

「いいえ、親族間での決定は、消滅させろ、と」

清彦の背が冷えた。

「我々総出でも、力が及ぶか分からない。でも、あの方は、きっと貴方の事は殺せない。だから適任だと。情愛を利用するのです」

「嫌です……」と清彦は震えながら俯く。

「まぁ、そう言いますよね。では、貴方は行かなくていい。貴方にあの山を任せた私の責任ですから、私が行きましょう。あの方の孤独を分かっていながら放置した者の中には私もいるのだから」

「でも、そうすると姉さんは?」

「死ぬかもしれませんね」

「そんな……竜ヶ水さんと結婚するんだろ?」

「春斗さんは優しい人だから、きっといい方が現れますよ」

「ああ、嫌なトロッコ問題だな。それなら、俺がやる。俺の手の中で消えて貰う。他の人間には任せられない」

「……ごめんなさい。私のせいで」

「姉さんのせいじゃないよ、俺のせいだ」

清彦は昏い目で微笑んだ。愛しいという気持が、こんなにも罪だったとは。

(俺はただ、梅の香の笑う顔が見たかっただけなんだ)

翌日、小さな箱を携えて、清彦は山を訪ねた。箱の中には色とりどりの菓子が詰まっている。

「ラデュレのマカロンだ。綺麗だろ。青いはがミント味だ。保温瓶に紅茶もある」

「綺麗だな」

「全部、梅の香のだ、ゆっくり食べたらいい」

明るく振舞わなければ、そう思っても清彦はもう上手く笑えない。

「最後の最後まで、お前は優しいな」

紅茶を飲み干して、梅の香が微笑んだ。

「知っていたのか」

「こうなる為に、あえて会いに行った。最初で最後のでーと、楽しかった」

「何度でも行こうよ。そうだ、遠くへ逃げよう。俺の一族に昔、狐と一緒になって、子供をなした人間の男がいたんだって。その男みたいに2人で暮らそう」

「恋しくば、尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉、だな。それは私の母親だよ。人に恋して、子供を産んだが、正体がばれて姿を消した。その時、もうひとり身籠っていたんだ。その母ももう亡いがな」

「葛の葉の子供……」

「長く生きる程に、私の力は強くなり、耐性の弱い人間に障りが出てしまうので、お前たちの一族により、この山に閉じ込められた。魔物でもないが、神として祀られる気もない、魔でも、神でも、ましてや人でもない私を、持て余していたのだよ。きっと、私がいなくなる事で安堵しているだろう。お前はある意味、功労者だ。皆は敬いはくれた。でも愛をくれたのはお前だけだった」

「じゃあ、俺と生きよう。何処にでも行く」

「私も一瞬、夢を見た。母のように、人の妻になれないかと。でも、駄目だった。どうあがいてもお前が先に死ぬ。私はまた独りぼっちだ。それを考えたら辛かった。その先の孤独を思えば、出会わない方がましだった。でも、もう出会ってしまった。肌の温もりも知ってしまった、だからな……」と梅の香はひと呼吸置いて「お前の手で消えたい」と清彦を見つめた。

「俺が居なくなっても、俺の思い出と生きてくれよ。それじゃ駄目か」

「もう、寂しいのは嫌なんだ」その梅の香の悲しく美しい目。そして意を決したように一言。

「土御門清彦。お前に呪いをかける」

「初めて名前で呼んでくれたな。どんな呪いでも受ける。みんな俺が悪いんだから」

「馬鹿だな。お前は何も悪くない。私がかけるのは思慕という呪いだ。お前の胸の中に私を住まわせろ」

そう言った梅の香は、狐の姿を現した。それは真っ白で、神々しいほどに美しかった。

「獣の姿の方が消しやすいかもしれないな。これなら気楽にやれるだろう。獣を退治するのはマタギと同じだろうて」

「どっちのお前でも綺麗だよ。俺の方こそ梅の香がいなければどうすればいいか分からない」

「お前はお前らしく生きろ。大丈夫だ、お前の行く道は、きっと明るい星に導かれる」

なんて残酷な愛だろうと清彦は思った。そうして身勝手だ。でも、そこまで深く愛してくれたなら、応えないのは筋が通らない。そう、腹をくくるしかない。

「わかったよ……」

清彦は梅の香を抱きしめた。辺りに漂う薄荷の香りは、段々と濃くなってゆく。しかし、それは清彦には分からない。梅の香だけに分かる香りだった。清彦は仄かで儚い梅の香りを感じるばかり。

「ああ、お前は温かくて、いい匂いだ……」

そうして、ふっと清彦の手の中で、愛しい人はかき消えた。後には僅かな梅の花びらが残るばかりだったが、それも風に吹かれて散逸してしまった。

それから清彦は笑わなくなった。じきに実家を出て、小さな家を借りた。

ある日、そのこじんまりとした家に清花が訪ねてきた。

「思ったより綺麗にしていて、安心しました」

「家に戻れっていいに来たんだろ。いいよ。しばらくして落ちついたら帰るよ。姉さんも嫁がないといけないしな。でも、もう少し時間をくれないか」

「いいえ、あの家は私が守ります」

「でも姉さんは竜ヶ水さんと……」

「春斗さんとは別れました。海外赴任が決まったからついてきて欲しいと言われましたが、芋羊羹やあんこ玉が食べられなくなるのは嫌でしたので」

「姉さんは何も気にしなくていい。幸せになっていいんだよ。ここから離れていい。俺が罰を受けて生きるよ」

「いいえ、貴方があの方を愛したのが悪いんじゃないの。恋をしたのは私で、あの家を出たかったのも、私。その焦りが判断を誤らせて、貴方を傷つけた。もういいのよ。貴方を利用した一族には関わらなくても」

それだけ言い残すと、清花は帰っていった。手作りのぼた餅を置いて。

後日、芋羊羹を携えて久しぶりに実家の門をくぐった清彦を見て、清花は驚いた。

髪をばっさり切り、派手な浮世絵柄のシャツを着て、にこやかに笑っている。

「いゃあ、姉さん、俺は楽しく生きる事にしたからさ、まぁ、姉さんも適任にやんなよ」そう明るく振る舞う目の奥は笑ってはいない。

それでも、笑わないといけない、とびきり明るく、面白おかしい風情で。そうしなければ、姉の心は、なお、重くなる。

美しい笑顔の美しい姉弟だった。しかし、姉は冷徹な仮面を被り、弟は笑顔の仮面を被り、心からの笑顔を見せる事は無くなった。

清花はもう喫茶迷い猫に行く事はない。そうしていつしか、その店もなくなってしまった。

梅の香りは、今も清彦の心に香り続ける。