1/18(水)
一月十七日…。
早いもので
阪神淡路大震災から28年なんですねえ…。
当時、私の実家は神戸市灘区にありました。
その頃、私は既に東京在住で
あの日はなぜか5時くらいに目が覚めていて
朝のニュース番組をつけていた…。
珈琲を飲みながらボーっとしていたのですよ…。
その何十分かあとのニュース、
関西で大きな地震があったと言う一報が飛び込んできた。
各地の震度は軒並み震度5やら4やら大きいものばかりであった。
そして、なぜか神戸だけが震度が表示されていなかった…。
記憶では豊岡が震度5…。
だったらずっと南にある神戸は大丈夫だろう…、と
単純に大したことないだろうと思っていた…。
しかし、
そのあと、流れて来た映像…。
何百回と通ったであろう
走り慣れていた道、国道43号線…。
その国道の真上を通る阪神高速神戸線が
何百メートルにわたって横倒しになった映像だった…。
呆然となった…。
当時はまだ携帯電話も一部の人しか使用しておらず
まだ普及はしていなかったので連絡の手段は固定電話しかなく
回線は朝の段階ですでにパンク状態だった。
比較的 被害の少なかった垂水区に住んでいた兄とは
確か、その日の夜に連絡がつき、
バイクで灘区の実家まで様子を見に行ったとの事だった。
実家は全壊してはいるものの
父は打撲だけで済み 無事なのが確認できた。
ところが、
別居していた母が住んでいた
東灘区のマンションまでは行けなかったと言う…。
倒壊した建物や瓦礫であらゆる道が塞がれていて
オフロードバイク、(スズキDR250)でもパンクなどの危険もあり、
暗くなって来た事もあって、進むのが困難だったとの事…。
私は電話口で怒鳴った!
「なんぼでも行けるやろ!オフ車なんやから!
バイクで行けんかったらバイク置いて歩いて行けや!
俺やったら行ってるわ!」
兄、「お前、テレビで見てるのと実際の現場は全然違うんやで!
暗なったら なんも見えんし、
お前も来てみいや!来たらわかるわ!
まあ、明日は何とか行ってみるけど…。」
との事だった…。
次の日、
兄は母のマンションまでは行けたようなのだが、
母が住んでいたのは3階でマンションの一階部分は
ぺちゃんこに押しつぶされており、
一階の人達がまだ救出されないままの状態で
結局、母のいた3階も充分には確認が取れなかったらしく
多分、近くの学校に避難しているだろう…との事だった。
母の住んでいたマンションもそうなのだが
倒壊した建物の瓦礫に大きな紙が貼られており
「ここの一階に3名埋まってます!早く助けてやって下さい!」
などと書かれたものが
あちらこちらで見られたそうだ。
私が神戸に向かったのは 1週間後だったのですが
私が行った時にもまだそういった貼り紙は多く残っていました。
兄は そのあと、目ぼしい避難所に行ってはみたものの
母に会う事は出来なかった…。
結局、
母の無事がわかったのは三日後だった。
私のところに幼友達から電話があって
彼のお母さんが避難所で私の母と会ったと言う内容だった。
母は避難所を何カ所か移動させられていたらしく
それでうまく兄と会う事が出来きず、
同じ地域に住んでいた幼友達のお母さんが少しの間、
母と一緒に行動を共にしていたと言う事だった。
私がNHKの安否情報にお願いしたメッセージも
避難所に張り出されたボードで確認できたそうだった…。
ただ、母は電話帳などを持ち出す事が出来なかったようで
それでどこにも連絡をする事ができなかったそうです。
後日、母から聞いた話ですが、
NHKに 「東京の○○へ、母は無事です」と
安否情報をお願いしたとの事だった。
んん、
それは聞けなかったですね…。
そして、
私が神戸に行けたのは一週間後、
勿論、愛機 XL250Rで向かいましたさ…。
と、
まあ、
そんな感じの私のあの日です…。
そのあとも色々と
現場の状況は凄まじいものがありましたが…。
震災当時の話しはこれくらいにしときましょう…。
震災の事は さわりだけで
本当は違う内容の記事にしようと思っていたのだが
つい
長々と書いてしまいました…。💦
あの震災では
私の知り合い、父の友人、母の知り合い
何人かが犠牲になっております…。
まあ、一神戸市民だった者の
当日の一日の記録と言う事で…。
自分に対しての備忘録も含め、
合掌…。
次回は
本来書こうとしていた記事を書かないと…。
また いつになるやら…。
バイク乗りの皆さん、引き続き安全第一で宜しくお願いします。
COVID-19にもご用心を…![]()
ではでは。。。
(`・ω・)ゝ