・グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む理由は、功利的な目的のために「美意識」を鍛えている。なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足を置いた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のような複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからである。
・そのように考える具体的な理由は、
①論理的・理性的な情報処理スキルの限界が露呈しつつある。この問題の発生については、大きく二つの要因が絡んでいる。1つ目は、多くの人が分析的・論理的な情報スキルを身につけた結果、世界中の市場で発生している「正解のコモディティ化」という問題。2つ目は、分析的・論理的な情報処理スキルの「方法論としての限界」である。VUCAな(不安定で、不確実で、複雑で、曖昧な)世界において、いたずらに論理的で理性的であろうとすれば、それは経営における問題解決能力や想像力の麻痺をもたらすことになる。そこで、全体を直感的に捉える感性と、「真・善・美」が感じられる打ち手を内省的に創出する構想力や想像力が求められることになる。
②世界中の市場が「自己実現的消費」へと向かいつつある。「全地球規模で経済成長」が進展しつつある今、世界は巨大な「自己実現欲求の市場」になりつつある。このような市場で戦うためには、精密なマーケティングスキルを用いて論理的に機能的優位性や価格競争力を形成する能力よりも、人の承認欲求や自己実現欲求を刺激するような感性や美意識が重要になる。
③システムの変化にルールの制定が追いつかない状況が発生している。現在のように変化の早い世界においては、ルールの整備はシステムの変化に引きずられる形で、後追いでなされることになる。そのような世界において、クオリティの高い意思決定を継続的にするためには、明文化されたルールや法律だけを拠り所にするのではなく、内在的に「真・善・美」を判断するための「美意識」が求められることになる。
・「経営を数値だけで管理することはできないし、すべきでもない」という指摘をすると、よく「測定できないものは管理できない、とドラッガーも言っているではないか」という反論がある。しかし、2つの点で完全に間違っている。1点目は、この指摘は、そもそもドラッガーのものではなく、エドワーズ・デミング博士によるものだという点。2点目は、この指摘の前後に元々あった文言が抜け落ちているため、結果的にデミング博士が伝えようとしたオリジナルのメッセージと大きく異なるものになっているという点である。
・デミング博士が指摘したオリジナルの原文は次の通りである。『測定できないものは管理できない、と考えるのは誤りである。これは代償の大きい誤解だ。』
・では、「測定できないもの」「必ずしも論理でシロクロつかないもの」については、どうやって判断すればいいのか?そここそ「リーダーの美意識」が問われる、というのが本書の回答ということになる。
・世界のエリートが、今必死になって「美意識」を鍛えている理由は、彼らが今後向き合うことになる問題、すなわち数値化が必ずしも容易ではなく、論理だけではシロクロがはっきりつかないような問題について、適時・適切に意思決定をするための究極的な判断力を鍛えるためだということなのである。
・私たち日本人の多くは、ビジネスにおける知的生産や意思決定において、「論理的」であり「理性的」であることを、「直感的」であり「感性的」であることよりも高く評価する傾向にある。
・「直感」はいいが、「非論理的」はダメ。どう考えても論理的に不利だという選択肢をわざわざ「直感」や「感性」を駆動させて選ぶというのは、「大胆」でも「豪快」でもなく、単なる「バカ」である。論理や理性で考えてもシロクロつかない問題について、むしろ「直感」を頼りにしたほうがいい、という事である。つまり、論理や理性を最大限用いても、はっきりしない問題については、意思決定のモードを使い分ける必要があるという事である。
・江戸時代の武芸家である松浦静山は「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉を残している。「不思議」というのはつまり、「論理的に説明ができない」という事である。「勝ちに不思議の勝ちあり」というのは、「論理ではうまく説明できない勝利がある」という指摘である。一方で、「負けに不思議の負けなし」というのは、「負けはいつも論理で説明できる」という事である。
(論理と理性だけに頼った意思決定によってもたらされる弊害について)
①グローバル企業の幹部が今後向き合う極めて難易度の高い問題について、論理的かつ理性的な思考プロセスによって、有効な解を見出すことが難しくなってきている。論理的、理性的にシロクロつかない問題について、あくまで論理的かつ理性的に答えを出そうとすれば、経営における意思決定の膠着と、その結果としてのビジネスの停滞がある。解決策としては、論理的にシロクロのはっきりつかない問題について答えを出さなければならない時、最終的に頼れるのは個人の「美意識」しかないという事である。欧州のエリート養成校では、特に「哲学」に代表される「美意識の育成」が重んじられてきたという経緯がある。
②情報処理を「論理的」かつ「理性的」に行う以上、入力される情報が同じであれば出てくる解も同じだということになる。ここにはパラドックスがあり、経営というのは基本的に「差別化」を追求する営みだからである。「正解を出せる人」が少なかった時代には、「正解」に高い値札がつけられていたが、これほどまでに「論理的思考」などの「正解を出す技術」を普遍化した結果、いまや「正解」は量販店で特売される安物、つまり「コモディティ」に成り下がってしまったわけである。
・かつての日本企業は、コモディティ化された市場でも、「スピード」と「コスト」の2つを武器にすることで勝者となった。しかし、昨今では、この2つの強みが失われつつあり、日本企業は、歴史上初めて、本当の意味で差別化を求められる時期に来ているということである。
・経営における意思決定のクオリティは「アート」「サイエンス」「クラフト」の三つの要素のバランスと組み合わせ方によって大きく変わる。「アート」とは、組織の創造性を後押しし、社会の展望を直感し、ステークホルダーをワクワクさせるようなビジョンを生み出す。「サイエンス」とは、体系的な分析や評価を通じて、「アート」が生み出した予想やビジョンに、現実的な裏付けを与える。「クラフト」とは、地に足のついた経験や知識をもとに、「アート」が生み出したビジョンを現実化するための実行力を生み出すものである。
・「アート」と「サイエンス」と「クラフト」の三つのバランスが重要であるにもかかわらず、多くの企業では実践できず、「サイエンス」と「クラフト」に偏っている理由は、「アート」と「サイエンス」や「クラフト」が主張を戦わせると「サイエンス」と「クラフト」が勝つからである。現在の企業にはアカウンタビリティー(「なぜそのようにしたか?」という理由を、後でちゃんと説明できるということ)が求められているため、結局「サイエンス」と「クラフト」に意思決定の重心が寄ってしまう。
・アカウンタビリティーがあるという事は、言語化できるという事であり、再現性があるかどうかという事である。サイエンスの世界では再現性があるかどうかという事は非常に重要な事であるため、天才という存在を排除してしまうことになる。
・意思決定を行うリーダーの個人的な美意識や感性は発動されず、後で責められた際に言い訳ができるかどうか、という観点に沿って意思決定がなされるのではあれば、これはリーダーシップの放棄でしかない。アカウンタビリティーという「責任のシステム」が、かえって意思決定者の責任放棄の方便になってしまっている。
・もし経営における意思決定が徹頭徹尾、論理的かつ理性的に行われるべきなのであれば、それこそ経営コンセプトとビジネスケースを大量に記憶した人工知能にやらせれば良い。
・「アート」と「サイエンス」と「クラフト」のバランスをとるためには、トップに「アート」を据え、左右の両翼を「サイエンス」と「クラフト」で固めて、パワーバランスを均衡させることが最適である。よく企業の経営をPDCAサイクルというが、言い換えればPlanをアート型人材が描き、Doをクラフト型人材が行い、Checkをサイエンス型人材が行うというのが、1つのモデルになる。PlanはCEOの役割、アート型のCEOが大きなビジョンを描き、CheckはCFOの役割、サイエンス型のCFOがその実行リスクや成果を定量化し、DoはCOOの役割、クラフト型のCOOがそれを実行計画に落とし込み、チェックするという構造が見えてくる。
・組織の意思決定の品質というのはリーダーの力量だけに寄って決まるわけではなく、一種のシステムとして機能する。一方でそれは、リーダーの力量が変わらなくても、システムのバランスが崩れれば、意思決定の品質もまた毀損してしまうのだということを示してくれているようである。
・ユニクロや無印良品のようにデザイン面での競争力は、個人のデザイナーの力量もさることながら、意思決定におけるアート・サイエンス・クラフトの適度なバランスを保つ、経営ガバナンスの仕組みにあるのだという点を忘れてはいけない。
・多くの企業経営者は、コンサルタントではなく、デザイナーやクリエイターを相談相手に起用する。「デザイン」と「経営」に共通する本質とは、「エッセンスを掬い取って、あとは切り捨てる」という事である。そのエッセンスを視覚的に表現すればデザインになり、そのエッセンスを文章で表現すればコピーになり、そのエッセンスを経営の文脈の中で表現すればビジョンや戦略ということになる。
・昨今続発している大手企業のコンプライアンス違反や労働問題の根っこには、経営における「過度なサイエンスの重視」という問題が関わっている。何ら有効な経営戦略を打ち出せない経営陣が、現場に無茶な目標を突きつけて達成し続けることを求めた結果、やがてイカサマに手を染めざるを得なくなった、というストーリーは基本的には同じです。経営陣の最も重要な仕事は、経営というゲームの戦略を考える、あるいはゲームのルールを変えるということであり、サイエンスだけに立脚していたのでは、事業構造の転換や新しい経営ビジョンの打ち出しはできない。こういった不確実性の高い意思決定においては、どこかで「論理的な確度」という問題について割り切った上で、「そもそも何をしたいのか?」「この世界をどのように変えたいのか?」というミッションやパッションに基づいて意思決定することが必要になり、そのためには経営者の「直感」や「感性」、言い換えれば「美意識」に基づいた大きな意思決定が必要になる。
・エキスパートたちは、山の片側から緻密な思考を積み重ねながら、山の反対側からは直感に導かれたアイデアの正しさを検証するという、トンネルの山の両側から掘り進めて一つの道筋にするような知的作業をやっている。
高度に抽象的な問題を扱う際、「解」は、論理的に導くものではなく、むしろ美意識に従って直感的に把握される。『美しい手を指す、美しさを目指すことが、結果として正しい手を指すことにつながると思う。正しい手を指すためにどうするかではなく、美しい手を指すことを目指せば、正しい手になるだろうと考えています。このアプローチのほうが早いような気がします』羽生善治「捨てる力」
・どんなに戦略的に合理的なものであっても、それを耳にした人をワクワクさせ、自分もぜひ参加したいと思わせるような「真・善・美」がなければ、それはビジョンとは言えない。
・プロセスとしては「論理」×「理性」を重視して、なるべく合理的な意思決定をやろうともがいているのは、かつての日本軍のような意思決定のあり方、つまり「その場の空気」に流されて何となく決めてしまう、というような事態を、決して招くことのないようにという、一種の過剰反応なのだと考えることもできる。
・現代社会における消費というのは、最終的に自己実現的消費に行き着かざるを得ないということであり、それはつまり全ての消費されるモノやサービスはファッション的側面で競争せざるを得ないということである。
・マービン・バウアーはかつて、人材供給の量と安定性にボトルネックを抱えるグレイヘアコンサルティングから脱却し、人材の選出と育成さえ誤らなければ、高いクオリティのコンサルティングサービスを量産できるファクトベースコンサルティングのビジネスモデルを構築し、今日のマッキンゼーの礎を築いた。しかし、世界はどんどんVUCAになってきており、事象の因果関係が性的でシンプルな構造として整理できる事象に対して有効であるファクトベースコンサルティングは適用しづらくなってきた。扱おうとしている問題の種類と、問題解決のアプローチがフィットしなくなってきた。
・デザイン会社が立脚している問題解決のアプローチは、直感的に把握される「解」を試してみて、試行錯誤を繰り返しながら、最善の回答に至ろうとする。このような考え方は、因果関係を静的に捉えて問題を発生させている根っこを押さえにいくファクトベースドコンサルティングとは対照的な思考になる。
・全地球的な経済発展の結果、巨大な自己実現市場になりつつある変化は、日本人にとって、とてつもなく大きな機会をもたらすと考えている。なぜなら、日本人はフランスと並んで、企業や社会が持つ基礎体力としての「美意識」は、おそらく世界最高水準の競争力を持っているからである。
・アカウンタビリティーとは要するに「言語化できる」ということだが、言語化できる事は、全てコピーできるという事である。それは「差別化」の問題を扱う経営戦略論において、なぜかほとんど言及されないポイントなのですが、今日の競争戦略を考える上においてとても大事な点である。
・イノベーションの後に発生する「パクリ合戦」における、デザインとテクノロジーの陳腐化という問題が発生する一方で、ストーリーや世界観はコピーできない。この世界観とストーリーの形成には高い水準の美意識が求められることになる。
・今日のように変化が早い世の中では、ルールの整備が社会の変化に追いついていかないため、ルールのみに依存して意思決定していると、大きな倫理上の問題を起こす可能性がある。そこで、実定法主義的な考え方ではなく、自然法的な考え方が重要になってくる。つまり、内在化された「真・善・美」の基準に適っているかどうかを判断する力、つまり「美意識」ということになる。
・目標達成後により高い目標を掲げれば、いずれは限界が来ることになる。この時に「ここが限界だ」と認めることができない人、つまり「強い達成動機を持つ人」は、そこで何とか目標を達成しようとして、法的・倫理的にギリギリなラインまで近接してしまう。この「粘り」が、彼らエリートを、エリートの立場に押し上げる原動力になったわけだが、その原動力が、やがて身の破滅を招く要因になってしまうわけである。
・大きな権力を持ち、他者の人生を左右する影響力を持つのがエリートである。そう言う立場にある人物だからこそ、「美意識に基づいた自己規範」を身につける必要がある。なぜなら、そのような影響力のある人物こそ「法律的にギリギリOK」と言う一線とは別の、より普遍的なルールでもって自らの能力を制御しなければならないからである。
・脳神経学者のダマシオによれば、私たちは無限にあるオプションの中から、まずソマティック・マーカーによっていくつかの「あり得ないオプション」を排除し、残った数少ないオプションの中から、論理的・理性的な推論と思考によって最終案を選ぶ、と言うプロセスで意思決定を行なっていると言うのが、ダマシオの仮説である。ソマティック・マーカーとは、情報に接触することで呼び起こされる感情や身体的反応(汗が出る、心臓がドキドキする、口が乾く等)が、脳の前頭前野腹内側部に影響を与えることで、目の前の情報について「良い」あるいは「悪い」の判断を助け、意思決定の効率を高める。
・マインドフルネスとは、過去や未来に意識を奪われることなく、いまの、ただあるがままの状態、例えば自分の身体にどんな反応が起きているか、どのような感情が湧き上がっているかなどの、この瞬間に自分の内部で起きていることに、深く注意を払うと言うこと。
・コーン・フェリー・ヘイグループは、全世界で実施しているリーダーシップアセスメントの結果から、変化の激しい状況でも継続的に成果を出し続けるリーダーが共通して示すパーソナリティとして、「セルフアウェアネス=自己認識」の能力が非常に高いと言うことを発見した。セルフアウェアネスとは、自分の状況認識、自分の強みや弱み、自分の価値観や志向性など、自分の内側にあるものに気づく力のことである。
・高度な意思決定の能力は、はるかに直感的・感情的なものであり、絵画や音楽を「美しいと感じる」のと同じように、私たちは意思決定しているのかもしれないことがわかる。ダマシオのソマティック・マーカーに関する仮説や、これまでに筆者が紹介してきたさまざまな知見が正しいのだとすれば、絵画を鑑賞したり音楽を聴いたりして「美意識」を鍛えるエリートたちは、まことに「スジの良い」ことをやっていると思わざるを得ない。
・オウム真理教は、これほどまでに「偏差値は高いが美意識は低い」という、今日の日本のエリート組織が抱えやすい「闇」を、わかりやすい形で示している例はない。
・多くのエリートは、システムに適応し、より早く組織の階段を駆け上がって、高い地位と年収を手にすることを「より良い人生」だと考えている。しかし、達成動機の問題について触れた際にも指摘した通り、そのような思考の行き着く先には、多くの場合、破綻が待ち受けていることになる。
・「誠実性」と言うコンピテンシーを低レベルで発揮した場合、与えられた規則やルールに実直に従うと言うことになる。システムを無批判に受け入れると言う事は、自分が所属する組織の規範・ルールが非倫理的な営みであった場合、すなわち「悪」であった場合、その「誠実さ」ゆえに罪を犯し、身の破滅を招くことになる。「誠実性」というコンピテンシーを高レベルで発揮した場合、外部から与えられたルールや規則ではなく、自分の中にある基準に照らし、難しい判断をする。つまり、自分なりの「美意識を持ち、その美意識に照らしてシステムを批判的に相対化する必要がある。そうすることしか、私たちは「悪」から遠ざかるすべはない。一方で、システムから排除されてしまえば、社会的な成功を収める事は難しい。「システムを批判的に対象化する」と言う事は、そのまま「システムを全否定する」ことを意味するわけではない。システムに適応したエリートが、様々な便益を与えてくれるシステムを、その便益にカドカワされずに、批判的に相対化する必要がある。
・経営における「真・善・美」の3つの判断について、これまで長いこと普遍的な基準とされてきた「論理」(=「真」の判断)や法律(=「善」の判断)や「市場調査」(=「美」の判断)と言った「客観的な外部のモノサシ」から、「真・善・美」のそれぞれについて、「真」については「直感」、「善」については「倫理・道徳」、「美」については「審美感性」という「主観的な内部のモノサシ」への比重の転換が図られている。
・論理思考の普及による「正解のコモディティ化」や「差別化の消失」、あるいは「全地球規模の自己実現欲求市場の誕生」や「システムの変化にルールの整備が追いつかない社会」といった、現在の世界で進行しつつある大きな変化により、これまでの世界で有効に機能してきた「客観的な外部のモノサシ」が、むしろ経営のパフォーマンスを阻害する要因になってきている。
・世界のエリートが必死になって美意識を高めるための取り組みを行なっているのは、このような世界において「より高品質の意思決定」を行うために「主観的な内部のモノサシ」を持つためである。
・組織における「美意識のガバナンス」と言うのは、突出した美意識を持った個人が居ればそれでいい、と言う問題ではない。「美意識のマネジメント」に携わる人たち全てにとって、高い水準の審美眼・哲学・倫理観が求められる、と言うことです。
・芸術的な素養としての「美意識」を鍛えられている人は、科学的な領域でも高い知的パフォーマンスを上げている。
・人工知能はあらかじめ入力する情報の枠組みを作ってあげないと情報の処理ができないが、人間はちょっとしたヒントから洞察を得ることができる。こう言った点は、人工知能には置き換えられない部分になる。フレーム問題。有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示すものである。
・昨今、多くのグローバル企業やアートスクールにおいて、「見る力」を鍛えるために、盛んに実施されているのがVTSである。VTSのワークショップを行うことで、見えていなかったことが見えるようになる。
・大半の大人は、パターン認識を身につけることによって、虚心坦懐に「見る能力」を失ってしまう。ところが、ごくごく少数ながら、大人になっても、このパターン認識を身につけられない人がいる。この症状は一般に「ディスレクシア=失読症」として診断される。そして近年の研究によると、成功した起業家は、普通の人の4倍も、失読症である確率が高いと言うことがわかっている。
・エール大学の神経科学者であるサリー・シェイウィッツは、失読症患者に対して、「彼らは、普通の人とは思考の仕方が異なるのです。もっと直感的で、問題解決力に優れ、全体像を見た上で、シンプルな本質を捉える。彼らは、一定の手順を繰り返す事は苦手ですが、数少ない兆しから、この先に何が起きるか。を予見することには、大変優れています。」と指摘している。
・現代社会を生きるエリートが、哲学を学ぶことの意味合いのほとんどが、実は過去の哲学者たちの「コンテンツ」ではなく、むしろ「プロセス」や「モード」にある。「コンテンツ」とは、その哲学者が主張した内容そのものであり、「プロセス」とは、そのコンテンツを生み出すに至った気づきと思考の過程であり、「モード」とは、その哲学者自身の世界や社会への向き合い方や姿勢のことである。