甚だ疑問に思うことを文字に起こそうと思った。

 

今の自分に無い解釈を違う視点から理解したい。自分に無い世界は不正解だと、そう決めつけたくないし、自分とは違うから自身のコロニーから追放するのは違うなと思う。

 

例えば、全ての物事に対して、ファーストコンタクトが悲観的な人類が目立つ。

 

気づいたら自分の発言はそういったネガティブ思考を持つ人々(以下ネ人)というシステムに対して入力になり、出力は自分の想像とかけ離れた悲観極まったものとして現れる。結果何とかなっているが、過程をディスってしまう。10の内、6が苦手で3が普通、1が他にないような才能にあふれていても6にしか目がいかない。

 

ここで、筆者は一風変わった高等学校教育を受けていたため国語の授業を中3で終えている。そのまま大学院まで進学してしまったものだから、文章にはパクチーがふんだんにかかっていて、パクチー狂の意識高い系主婦層を狙って記事を練り、発行していくわけだ。

 

自分の世界観を皆が持つときに、構築するベースには色がある。おそらく、モノトーン。社会の大半に攻撃的で、マイナス思考の言葉を発するのが癖になっている人間には、世界はモノトーンに映っているのではないだろうか。

 

色彩は、時に人の感情と世界の色が混ざり合い、この人生というゲームをプレイしているプレイヤーの色になる。染め上げられる。だが悲観に満ちている人間にとって、世界の色の鮮やかさは感情によって無力化され、グレースケール256階調の世界に変貌する。

 

ありのままの色を見つめるのではなく、自分の感情と世界がリンクしたときにどのような色になるのかを楽しみに生きていくために、たった256色の世界に閉じ込められるのは、umm。

 

オープンワールドなんだから、地球は。今20数年生きてきてある程度関わった人間数なんて1000人くらいでしょう。もっと外側に視野を広げて、もっともっと。

 

学校なんて本当に限られた空間に過ぎない、これからの自分の人生の飛躍がこれを書いているうちに楽しみすぎてenterキーが悲鳴を上げるくらい改行してしまう。

 

 

 

 

 

 

だがこう思う。空はいつも、青くあってほしい。