駿河の国で寄り道(61)「一里塚(宇津ノ谷ほか)」 | れいんぼうの部屋

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釣り以外の記事の方が増えています。

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」

 

一年余り前に

「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)の古地図を見ながら

江戸時代に栄えた駿府の面影をたどった。

 

 

旧東海道で、行ってみたいところは大体巡ってきたが見逃した所があったので写真を撮ってきた。

 

以前巡った時には「宇津ノ谷の一里塚跡」を見つけられないでいた。

 

 

「宇津ノ谷」の一里塚は江戸から47里目

 

宇津ノ谷峠を越えれば現藤枝市の岡部宿へ入るといった静岡市最西にある一里塚

 

「東海道まちあるきweb」の古地図を見ると

丸子から宇津ノ谷村へ入ってすぐの逆川が流入する先に

一里塚が描かれている。
 

そんな逆川と国道一号線が交差する所に、無いと思っていた一里塚跡の道標を見つけた。

 

 

 

〇「一りづかあと」という道標が歩道橋脇に立っていた。

 

今回見つけた「一りづかあと」と彫られた石の道標は裏に大正14年建立と彫られている。

 

木の看板があったので読む

ようこそ丸子路へ

この左奥1.5キロ先に14軒の集落があります

逆川自治会

逆川は地図上で見れば川が逆さに内陸部に向かい流れています。

東海道自然歩道バイパスハイキングコース

名峰満願峰

満願峰に登ると茶畑が広がり、すばらしい眺望が見渡すことができます。

焼津から御前崎方面、駿河湾の向こうに伊豆の山々、秀麗富士山から南アルプスまでの景色が満喫できます。

現地点(入口)から約1.5キロ(車道)逆川集落から(山道)約1.5キロ満願峰

                   近藤石浄 書

 

逆川集落と満願峰を説明したもので一里塚の説明は一言も無かった。


それでも無いと思っていた一里塚跡を見ることができて良かった。
 

 

この機会に

 

一里塚についてもう一度振り返ってみよう

 

 

静岡市には一里塚跡がたくさんある。

ひとつの市に10カ所とはなんと多い事か。


 

 

江戸に向かうと次の一里塚は「丸子」
 

江戸から46里 

駿河区丸子6丁目の旧東海道沿いにある。

以前は長田西小学校の近くにあったが道路整備に伴って100mほど西に移設した。

どこにあったか正確な位置が分かっていないってことだろうか?

 

〇丸子 一里塚の石碑

石碑の民家のブロック塀に看板がかかっているので読む

 

東海道の松並木と一里塚
江戸幕府は東海道の整備にあたり街道の両側に松の木を植えた。旅人の夏の日よけか、冬の風除けのためかわかりませんが、その松並木は終戦後まで東海道のシンボルでした。丸子宿と佐渡の間大曲りは松並木に笹が茂り淋しいところでした。
時代と共に開発が進み現在では手越原に四本と赤目ヶ谷西部給食センターのところ二本が残っているだけになりました。
幕府は旅する人々が歩いた距離がわかるように道しるべとして一里(約四キロ)ごとに塚を設置しました。一里塚は小山を築いて目じるしに榎木や松の木を植えました。
この一里塚は江戸の日本橋から四十六里、数えて十二番となります。此処の所の塚本さん宅の屋号は「一里山」と呼ばれていました。
次の一里塚は逆川入口附近にあったと言われていますが道路改修のため消滅しました。
ちなみに昔の人は、天気の良い日には一日十里を(約四十キロ)歩いたそうです。
江戸から京都まで十二日から十五日くらいかかりました。
平成二十一年十一月
長田西自治会連合会
丸子宿研究会

 

この看板がある場所が「一里山」と呼ばれていた「塚本さん」の家のようだ。

 

また看板には「宇津ノ谷の一里塚」についての説明「逆川入口附近にあったと言われていますが道路改修のため消滅しました。」と書かれている。
 

 

〇丸子の一里塚跡

「一りづかあと」と書かれている。

また石碑の裏には、宇津ノ谷の「一りづかあと」と同じく「大正14年建立」と書かれていた。

 

 

〇石碑の裏側

大正14年7月静岡市と刻まれていた。

結構古い。

 

宇津ノ谷の一里塚跡と同じ時に設置した石碑だった。

 

 

 

江戸に向かって次の一里塚は「府中」
江戸から45里    葵区本通8丁目

 

〇一里塚の碑

本通りを渡って「お仏壇のやまき」から20mほど安倍川方面に行くと道路脇の植え込みに一里塚の碑が建っている。

内容を読む(抜粋)。

一里塚は、江戸時代、1里(約4キロ)ごとに直径7~8メートルの土饅頭を盛り旅人の目印にした。
慶長9年に一里塚を設けたが、現在では大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。
本通の一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。


 

 

江戸に向かって次の一里塚は「長沼」
江戸から44里    葵区長沼2

 

10年前には民家の前に一里塚跡の石碑が立っていたが、今は長沼公民館の前に移設した。

 

〇一里塚跡の石碑

 

一里塚跡からすぐの向かい側に古地図にも描かれている曹洞宗の「久応院」がある。

 

古地図に画かれた「久応院」のすぐ西隣に一里塚が描かれていた。

 

 

 

 

江戸に向かって次の一里塚は「草薙」
江戸から43里    清水区一里山

 

旧東海道が「南幹線」に合体した辺りは、「草薙一里山」という町名。

 

「清水銀行草薙支店」の一画に一里塚跡がある。

 

〇草薙一里塚の石碑

一里塚の石碑の脇にはなぜか狸が立っている。説明書きがあった。(概略)
道の両側に松並木を植え1里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。
草薙一里塚は江戸より43里(170km)の処で43番目の塚。

 

 

 

江戸に向かって次の一里塚は「江尻・辻」
江戸から42里    清水区辻2

 

古地図を見ると「辻村」と書かれた先に「一里塚」がある。

 

〇一里塚跡


このあたりに一里塚があったとの看板が立っていた。

今は駐車場になっていて看板は見当たらない
<一里塚跡>
江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
塚は5間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
辻の一里塚は江戸より42番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。

 

 

 

 

江戸に向かって次の一里塚は「興津」
江戸から41里    清水区興津中町

 

旧東海道沿いを進みJR興津駅を過ぎると間もなく民家の脇に一里塚の道標がある。

 

〇興津宿一里塚


道標のほかには一里塚を説明するものはない。

 

 

 

江戸に向かって次の一里塚は「西倉沢」
江戸から40里    清水区西倉沢

 

一里塚の跡を表す碑が立っている。

 

〇西倉沢一里塚

一里塚の説明看板を読む。
<一里塚(由比町西倉沢)>
江戸から数えて40番目の一里塚である。
江戸から凡そ160キロの距離になる。
ちなみに由比駅~東京駅間は158.4キロである。
この一里塚は薩た峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。

 

薩た峠の説明文もあったので読む。(一部抜粋)
戦国時代、足利尊氏が弟直義合戦せし古戦場として知られている。
峠は磐城山ともいい江戸時代、安藤広重の東海道五十三次のうちここ薩た峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものは有名。

 

 

 

江戸に向かって次の一里塚は「由比」
江戸から39里    清水区由比

 

本陣から300mほど進むと左側の家の脇に「一里塚」の碑が立っていた。

「一里塚」の周辺は現在10年前とは碑の位置や景色も様変わりしているようだ。


〇由比宿一里塚

10年前には、碑の向い側に植樹された小さな一里塚があって案内看板が立っていた。

看板を読む。
由比の新町の一里塚は江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661-71)山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。
十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。

 
 

 

 

江戸に向かって次の一里塚は「蒲原」
江戸から38里    清水区蒲原1

 

「北条新三郎の墓」の入口の向かいに祠が民家の脇に建っている。
「一里塚」があったことを記念した祠と石碑。

 

〇蒲原宿一里塚

説明看板を読む。(概略)

一里塚は、1699年の大津波で流出し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移された。

当時のおもかげはなく、今は小さな祠が残っている。

 

 

 

静岡市には東海道全部で124里の一里塚のうち10ヶ所の一里塚があった。