駿河の国で寄り道(47)「鍛冶町・駿府96ケ町(5)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」のうち「玄南通り」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

葵区昭和町にある静清信用金庫本店の前に「鍛冶町」の町名碑がある。

 

〇鍛冶町の町名碑

 

 

説明看板を読む。

駿府96ケ町のうち
鍛冶町(かじちょう)
江戸時代に多くの鍛冶職人が住んでいたことから、鍛冶町の名が付けられました。
江戸時代に編纂された地誌「駿河国新風土記」によれば、駿府には刀剣や農具を作る地鍛冶と瀬名鍛冶、釘類や船道具を作る上鍛冶と呼ばれる三つの種類の鍛冶職人がいたようです。それぞれの鍛冶職人の名前が何に由来するかは、定かではありません。鍛冶職人の中には、戦国時代から江戸時代の後半まで代々続いた刀職人の家もありました。
「元禄5年(1692)駿府町数並家数人数覚書帳」によると、当時の家数は16軒、人口は135人でした。昭和20年(1945)に、昭和町と紺屋町に分割編入され、鍛冶町の町名はなくなりました。

 

 

「鍛冶町」の100m西に「平屋町」の町名碑が立っている。

 

〇平屋町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「平屋町」(ひらやちょう)
駿府城の南西、現在の常磐町一丁目にあった町です。
「駿河記」によれば、平屋某という人の居宅があったことが町名の由来とされていますが、詳細は分かりません。
平屋町は、元禄年間創設の駿府定火消では井筒組、文政4年(1821)創設の町方百人組合火消では南組に所属しました。元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では17戸、120人が住んでいたとされています。
なお、町内を南北に貫く通りは、「玄南通り」と呼ばれていますが、これは江戸時代、城付医師としてこの辺りに住んだ永谷玄南(玄庵とも)にちなんで名付けられたといいます。
平屋町は、昭和20年(1945)に昭和町、常磐町一丁目、両替町二丁目に併合され、町名の歴史に幕を下ろしました。

 

 

 

「玄南通り」を南西に進んだ次の町が「江尻町」。

 

〇江尻町の町名碑

 

 

説明看板を読む。

駿府96ケ町のうち
江尻町(えじりちょう)
町名の由来について、江戸時代後期に編まれた地誌「駿河志料」には庵原郡江尻の人々が移り住んだことにちなむという説が記されています。。
「元禄5年(1692)「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の江尻町の家数は26戸、人口は98人でした。
昭和20年に常盤町一丁目、昭和町改編されました。

 

 

「平屋町」と「江尻町」は現在、「玄南通り」という歓楽街にあった。

 

〇玄南通り

 

 

 

次回は「呉服町」周辺を訪ねる。