駿河の国で寄り道(46)「紺屋町・駿府96ケ町(4)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「紺屋町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

「紺屋町」は前回立ち寄った電電ビル前「江川町交差点」の南にある町。

 

「江川町交差点」の300m南に「浮月楼」という結婚式にも使われる料亭があって、その前に「紺屋町」の町名碑が立っている。

 

〇紺屋町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

紺屋町の名は、江戸時代はじめに染物師の町として整備されたことに由来します。紺屋町は商人の町として栄え元禄5年(1692)の記録には家数43軒、人数345人とあります。また、町の一角には駿河国内の天領を治める代官屋敷も置かれていました。
大政奉還後、静岡藩の勘定組頭を務めていた渋沢栄一(のち多くの事業を起こした明治時代を代表する実業家)は、元代官屋敷に藩の商事機いた最後の将軍、徳川慶喜公の処分が解かれると「常平倉」(商法会所はこのころすでに常平倉と改称されていた)を常慶町(現在の常磐町二丁目)の教覚寺に移し、そのあとを慶喜公の屋敷にあてました。慶喜公は、明治21年に西草深邸にうつるまで、20年余をこの地ですごしました。

 

 

 

「紺屋町」の町名碑から50m西を通る江川町通りに出て100m南下した交差点角に「下桶屋町」の町名碑がある。

 

〇下桶屋町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
下桶屋町(しもおけやちょう)
江戸時代に、桶を作る専門職人が居住していたところのうち、林惣右衛門という桶職人の棟梁が住んでいた町を上桶屋町(茶町と柚木町に接した町)、もう一方を下桶屋町と呼んでいました。両桶屋町の職人は、徳川家康公が駿府城に在城していた頃、駿府城内の台所で使用する桶を作る等の御用を務めていました。
「元禄5年(1692)駿府町数並家数人数覚帳」によると、当時の家数は12戸、人口は64人とされ、96ヶ町の中では規模の小さな町でした。天保13年(1842)の「下桶屋町絵図」によると、上桶屋町が道を挟んで東西に展開しているのに対し、下桶屋町は東西の道の間に家が立ち並んでいました。
昭和20年(1945)に昭和町と紺屋町に分割編入され下桶屋町の町名はなくなりました。

 

 

 

「下桶屋町」の町名碑から150m南に「宝台院」がある。

 

宝台院は「金米山宝台院龍泉寺」といい、江戸時代には現在の常磐公園から南東側一帯が当寺院だったほど大きかったらしい。
 

年配の人には懐かしい名称。

旧国鉄時代に鉄道を跨ぎ駿河区方面へ行く陸橋の名前を宝台橋と称していた。
 

〇宝台院

 

宝台院の入口を入った所に五輪の塔が立っている。
 

〇西郷局の五輪塔

 

五輪塔の説明書きを読む。
室町時代の永正四年(1507)鎌倉光明寺八世観誉祐崇上人開山の浄土宗寺院で、天正17年(1589年)家康の側室西郷局(お愛の方)が駿府城で病没し、その菩提所となった。
西郷局は二代将軍秀忠の生母であったから、幕府から御朱印三百石を賜り、住職は10万石の大名同等の待遇を受け、駿河一国の触頭(ふれがしら)として、諸寺院を支配した。
しかし明治維新後は徳川家の援助もなく、加えて昭和15年(1940)の静岡大火及び昭和20年(1945)の戦災により焼失、さらには区画整理により寺域は狭隘となり、ついに昭和63年従来からの隠居寺であった久能海岸安居の照久寺へ別院を建立し、檀家の墓地のすべてを移葬した。
しかし、西郷局の大きな五輪塔は宝台院本堂前に移されて現存する。

もっとも二度の火災によって墓石の表面はかなり剥落している。

 

 

 

宝台院から出てすぐ脇に町名碑が立っている。

 

〇下魚町の町名碑

 

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
「下魚町」(しもうおちょう)
この地は用宗方面から運ばれる魚介類を扱う商人が集まり、慶長年間に城中御用の魚問屋が置かれました。城から離れているため、その一部が金座のあった付近に移されて上魚町、この地は下魚町となり、地元の人々からそれぞれ「かみんたな」「しもんたな」と呼ばれました。また江戸時代の地誌によれば下魚町には塩問屋があつまり、塩屋町とも呼ばれていました。元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の下魚町の家数は38軒、人数236人でした。
町の南側には宝台院があり、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の生母 西郷の局の菩提所となっています。

下魚町は昭和20年(1945)に常盤町に編入されました。
 

 

 

次回は「鍛冶町」周辺を訪ねる。