駿河の国で寄り道(45)「伝馬町・駿府96ケ町(3)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

今回は「駿府96ケ町」の「伝馬町通り」周辺を探索している。


 

「伝馬町通り」を行ったり来たりして「駿府96ケ町」の所縁の地を巡っている。

 

前回と前々回に見つけられなかった「町名碑」を見つけた!!

 

「台所町」と「八幡小路町」の2ヶ所が「つつじ通り」沿いに2022年に設置されたようだ。

 

〇台所町の町名碑

町名碑は静鉄電車の「日吉町駅」近くの「つつじ通り」沿いにあるドラッグストア前に建っていた。

「日吉町駅は」かつて「台所町駅」と言われていたらしい。

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
台所町(だいどころまち)
ここは、駿府城南東に位置し、かつて城内の台所門に通じる場所に位置していたため「台所町」になったと言われています。台所は現在の厨房とは異なり、家事全般を行う場所でした。また、江戸時代には、飲食物の調理を管理する台所役人という役割もあり、将軍の食事の調理を任されていたと伝わっています(「古事類苑」)。「駿河記」には、台所町と呼ばれる前は、横田魚町(よこたうおまち)と呼ばれていたとの記述があります。
元亀4年(1573)、武田氏が、この地を治めていた中村家に宛てた手紙、武田家朱印状には、魚商人の組織(魚座)を許可することが記されており、中村家は、寛文年間(1866~1673)までこの土地にあったと言われています。そのため、横田魚町は、魚座があったことに由来します。元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では、34戸、185人が住んでいたとされています。

 

 

〇八幡小路町の町名碑

この町名碑は「つつじ通り」沿いに設置されていた。

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
八幡小路町(やはたこうじまち)
「八幡小路」は、石碑が建つ、この通りと並行して西側にある、華陽院門前町から南に入った小路を指します。この町名は、江戸時代の地誌「駿河国新風土記」などによると、ここから1kmほど南にある八幡村にある八幡神社へ至る道があったことに由来します。この小路は、駿府城と久能山東照宮を結ぶ久能街道に通じる道で、江戸時代には参勤交代の途中、駿府を訪れた西国諸大名が東照宮参詣の際、東海道の枝道として利用しました。
現在地付近は、八幡小路町の東にあった「円光院」跡地です。円光院は、家康在城の頃、元和元年(1615)に建立され、施薬院(貧しい庶民の医療施設)も行われていました。現在の円光院(葵区北)には、葵の御紋付きの薬研(薬を作るのに使う道具)が遺っています。
元禄5年(1692)の「町数等覚帳」では、29戸、143人が住んでいたとされています。「八幡小路町」は、のちに八幡町そして、上八幡町となり、現在は大部分が伝馬町に編入されました。なお、「つつじ通り」は、昭和15年(1940)の静岡大火後に造られた防火のための道路です。

 

 

 

伝馬町には本陣や脇本陣があって、府中宿の中心的な役割を持っていた。

 

旧東海道だった伝馬町通りの本陣跡地に石碑が立っている。

 

〇上伝馬町本陣脇本陣跡

府中宿の説明書きを読む。

伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社等があります。
徳川幕府末期の動乱期に、15代将軍徳川慶喜公の処遇や江戸城の無血開城への道筋を決めた東征軍参謀西郷隆盛と勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄舟の会談が行われた松崎屋敷跡が市指定史跡「西郷山岡会見の地」となっています。

 

 

本陣跡の石碑の向かい側に伝馬町の町名碑が立っている。

 

〇伝馬町の町名碑

 

説明文を読む。

駿府96ケ町のうち
上下伝馬町(かみしもてんまちょう)
東海道府中宿の一画に位置し、町名は伝馬の機能が設けられていたことに由来します。
2軒の本陣と脇本陣、問屋場、貫目改所の宿場の機能が設けられ、数十軒の旅籠屋などが軒を連ねていました。
町内には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際、従者の休憩所にあてられた法伝寺や新光明寺があります。
また、東征軍参謀の西郷隆盛と勝海舟の命を受けた山岡鉄太郎(鉄舟)とが江戸城無血開城を決めた会見の地g静岡市の史跡に指定されています。
明治2年静岡宿と改められましたが、大正4年には再び伝馬町になりました。

 

「上下伝馬町」とあるが「上伝馬町」と「下伝馬町」の2町を表している。

 

伝馬町の町名碑から100m西に「西郷・山岡会見之地」という碑が立っている。

 

〇西郷・山岡会見之地

説明書きを読む。
静岡市指定文化財(史跡)
西郷・山岡会見之地
慶応四年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王を大総督とする東征軍の参謀伝馬町の西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ松崎屋源兵衛宅で行われた。
この会見において、徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。
明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置づけられるものである。

 

 

「西郷・山岡会見之地」の碑の近くに「新谷町」の碑がある。

 

〇新谷町の町名碑

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
新谷町(しんがいちょう)
町名の由来については、江戸時代の地誌「駿河記」に、「新谷氏の居宅ありし故に名づく」と記されています。
新谷町には江戸時代の一時期、小梳神社がありました。
現在、紺屋町に鎮座する小梳神社は、もともと駿府城三ノ丸内に祀られていましたが、寛永8年(1631)に新谷町へ移されます。
延宝3年(1675)には、新谷町から紺屋町へ移転しますが、その後も小梳神社の祭礼には、新谷町の神社跡地へ、神輿の巡幸がありました。
「元禄5年(1692)駿府町数並家数人数覚帳」によると、当時の新谷町の家数は8軒、人数は75人でした。
昭和20年、伝馬町と御幸町へ改編され、新谷町の町名はなくなりました。

 

 

新谷町の町名碑のすぐ先に「江川町交差点」と呼ばれている大きな交差点がある。

交差点を西へ渡った地下道の出入口脇に「江川町」の町名碑がある。

 

〇江川町の町名碑

 

説明書きを読む。

駿府96ケ町のうち
江川町(えがわちょう)
「江川町」は、江戸時代から昭和20年までの町名で、伊豆国韮山の代官を務めた江川家の先祖が、天正年間にこの地に住まいしたことに由来する、といわれています。
駿府城の南東隅近くに位置し、町の中を東海道が通っています。
城に面した町の一隅には、駿府用水に架けられていた石橋「鵰橋」の碑が建っています。

この町には駿府の有力商人が多く住み、江戸時代の文化~天保年間の地誌「駿河国新風土記」を著した町人学者新庄道雄が、江川町の郷宿三階屋に生まれています。
「江川町」の名は、交差点や通りの呼称として今に伝えられています。

 


 

次回は「紺屋町」周辺を訪ねる。