駿河の国で寄り道(44)「横田町・駿府96ケ町(2)」 | れいんぼうの部屋

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釣り以外の記事の方が増えています。

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では前回から「駿府96ケ町」を巡っている。

 

 

今回は「駿府96ケ町」の「横田町」周辺を探索してみる。

 

大御所となった徳川家康が駿府城の改修と町づくりのために呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせた96区画の街並みを「駿府九十六ヶ町」と呼んだ。

 

「駿府」の東側入り口になる「東見附跡」が国道一号線脇にある。

 

〇東見附跡

説明文を読む。

府中宿東見附
横田町は駿府でも古い地名のひとつで、横田の名は平安中期の書物にも登場しています。

江戸時代、府中宿は、上伝馬町、下伝馬町にそれぞれ本陣、脇本陣が設けられ、問屋場、旅籠が43件もある東海道最大規模の宿場でした。伝馬町から呉服町、高札場のある札の辻の七軒町、新通り川越町の西見附まで27の町で構成されており、ここ横田町には、駿府城下町に入るための東の入り口である「東見附」が置かれていました。

徳川家康公は、1607年に大御所として駿府(府中)に入られ、天下泰平の基礎を、亡くなるまでの9年間、この地で固めたのです。

 

 

現在の横田町は、国道一号線脇にある「東見附跡」から伝馬町手前まで、旧東海道である「伝馬町通り」沿いの町。

東見附を入ってすぐの町が「下横田町」。

 

〇下横田町の町名碑

 

説明文を読む。

平安時代に編まれた「延喜式」には東海道の駅の一つに「横田」の名が記されています。
古代の「横田」の位置に関してはいくつかの説がありますが、この記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかります。
また、同じく平安時代に編まれた「倭妙類聚抄」には安倍郡の八郷の中に「横太」と記載されています。
江戸時代に入ると駿府九十六ヶ町の一つに数えられます。
上・下横田町のうち下横田町は府中宿の東の入り口にあたり、東境には「見附」がありました。「駿国雑志」によれば横田見附は、元禄5年(1692)に設置され、道をはさんで両側に枡形の石垣が築かれていました。また、元禄5年の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の下横田町の家数は47軒、人数は214人でした。
昭和20年(1945)に上横田町、院内町、下横田町(猿屋町は大正4年に下横田町に編入)がそれぞれ横田町1、2、3丁目となり、その後住居表示の実施により横田町となって現在に至ります。

 

 

〇下横田町の町名碑にあった説明の地図

設置している場所の関係で、この地図は北が下になっている。

 

 

下横田町の西が「猿屋町」。

 

〇猿屋町の町名碑

 

説明書きを読む。

町名は、猿引きの住む町であったことに由来します。
猿引きとは、正月に家々を回り、猿に舞わせて一年の安泰を祈る芸能のことで、猿廻しとも呼ばれます。
江戸時代の地誌「駿国雑志」には、この猿屋町の猿引きについて詳細な記述が見られます。それによれば、この地には、今川氏の時代から猿引きが住み、正月・5月・9月に駿府城内や城下の家々などに出向いて馬の病災除けや、子供の疱瘡除けを願い猿の舞を披露していました。猿は馬の守護神であるという古くからの信仰があり、そうした信仰に基づいて厩を回っていたようである。
元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の猿屋町の家数は6軒、人数は54人でした猿屋町は大正4年下横田町へ編入されました。

 

「猿屋町」の西が「院内町」。

 

〇院内町の町名碑はまだ設置されていないのか見当たらなかった。

 

院内町の中心に「西宮神社」がある。

 

〇印内町の辺りの伝馬町通り

 

印内町は西宮神社を中心に栄えた。

 

〇西宮神社

家康が駿府城築城に際し、この町の陰陽師に祈祷をさせた。

陰陽師は「院内」とも呼ばれ町名の由来になったと言われている。

宝泰寺門前町と呼ばれた時期もあった。

 

 

「院内町」の西が「上横田町」。

 

〇上横田町の町名碑はまだ設置されていないのか見当たらなかった。

 

〇上横田町あたりの街並み

下横田町の町名碑の説明に書かれていたとおり、上横田町、院内町、下横田町、猿屋町がそれぞれ横田町1、2、3丁目となり、その後、住居表示により横田町となっている。

 


 

次回は「伝馬町」周辺を訪ねる。