駿河の国で寄り道(43)「駿府96ケ町 (1)」 | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」では前回まで12回にわたって「ヤマトタケル」ゆかりの地を巡った。

 

 

今回は「駿府96ケ町」に目を向ける。

 

静岡市の文化財課は、平成5年から「96ケ町」の町名碑を設置していて、すでに40基あまりが設置済み。

全部で50基ほどの設置を予定しているらしい。

 

以前から「町名碑」を時々見かけていて気になっていた。

 

「96ケ町」の町名碑を探索してみる。

 

 

徳川家康が大御所となり駿府にやって来た際に全国から職人と商人を呼び寄せ、城の改修と町づくりを始めた。

 

呼び寄せた職人や商人を区画ごとに住まわせて機能的な町づくりを行い、割り振った町が96区画だったことから「駿府九十六ヶ町」と呼ばれた。

 

家康在城当時の駿府は10万人の人口を抱える大都市だった。

江戸の人口が15万人ほどだった事からも当時の繁栄をうかがうことが出来る。

 

 

以前、旧東海道を巡った時に伝馬町にある「華陽院」の玄関に駿府の絵図が掛軸にして架かっていた。

 

〇華陽院掛軸


僧正にに伺ったらこの絵図はコピーとのこと。

製作時期を聞いて来なかった絵図だが「駿府96ヶ町」の多くが書き込まれていて、慶長の時代だったようだ。

 

ということで96ケ町を巡る散策は、「花陽院門前町」、ここから始める。

 

 

「華陽院」から旧東海道の伝馬町通りに出た所に「花陽院門前町」の町名碑がある。

 

 

〇花陽院門前町の町名碑


今は無き旧の町名、花陽院門前町。

寺の名前を町名にするほど家康はこの寺を大事にしていたのだろう。
 

説明があるので読む。
「此町は元横田の内にて、寺門前なるによって然唱(しかりととな)へ、寺に隷(つ)くなり」と江戸時代の地誌「駿河志料」に記されています。町は伝馬町と鋳物師町とに挟まれ、東海道に面し府中宿の一画を構成しています。
町名の華陽院は、明治5年(1692)「駿府数并家数人数覚帳」などによります。華陽院門前町は、明治5年誉田町と中八幡町となり、現在は伝馬町と鷹匠二丁目の一部となっています。
町名の由来となった玉桂山華陽院は、元来智源院と呼ばれ、松平竹千代、後の徳川家康公が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られています。
駿府ででの竹千代の養育にあたった外祖母源応尼(家康公の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院に名を改めました。華陽院には源応尼の墓と並んで家康の5女市姫の墓があります。

 

 

「花陽院門前町の石碑」から50m東の伝馬町通り沿いに「府中宿の石碑」がある。

 

〇府中宿の石碑

歩道に「日本遺産・東海道」と書かれている。

 

説明を読む。

府中宿は江戸から約44里 ( 約176km )、品川宿から19番目の宿場です。
東見附は横田町、西見附は川越町にあり、天保14年 ( 1843年 ) には、本陣2軒、脇本陣が2軒、旅籠は43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道最大規模の宿場でした。
伝馬町には馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な業務を行う問屋場、大名や公家など身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、東海道には3か所しか設置されていなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所などがあり、大変な賑わいでした。
また、参勤交代の大名たちは、家康公の祖母の菩提寺である華陽院にお参りしました。
家康公の墓所がある東照宮に向かう久能街道は、駿府の町に物資を運ぶ重要な道でした。

 

 

「府中宿の石碑」からすぐ東の伝馬町通り沿いに「鋳物師町の町名碑」がある。

 

〇鋳物師町の町名碑

 

今は無き旧の町名、鋳物師町を説明する碑が立っている。

 

説明書きを読む。
東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代のはじめに鋳物師が住んでいたことに由来します。
「鋳物師町」の名は今はなく、現在は伝馬町・横田一丁目・日出町に分かれています。

 

〇鋳物師町の町名碑の説明書きの地図

 

この地図にも書かれているが「久能東照宮道」が点線で記されている。

 

花陽院門前町の石碑の道路向かい側に「久能山東照宮道」の案内標示がある。

東照宮へ通じる道は家康の死後に作られた街道なので「96ケ町」が整備された後に整備された。
 

〇久能山東照宮道の案内

左のビル前の歩道に案内碑が立っている。

 

久能山東照宮道。

 

説明文を読む。(概略)
東海道府中宿(静岡市伝馬町)から、久能山の麓に通じる久能街道はここから始まります。目の下に葵駿河湾、遠くに伊豆半島を見ることができる久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには300年にわたる平和な江戸時代を開いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えられていたからです。
昭和20年代まで、この場所には「久能山東照宮道」と記した石碑がたっていました。
もともと久能街道は、久能海岸で作られた塩を始めとする海の産物を駿府に運び込むために、古代から使われてきた静岡でもっとも古い街道の一つで、駿府の町に北側から入ってくる安倍街道や藁科街道につながります。そして、町の中央には、東海道が東西に走っています。駿府の町は。南北から生活物資が運び込まれた久能街道や安倍街道と東西から人や情報が流れ込んだ東海道が交差するところに発展したことになります。久能街道は、はるか昔から駿府を支えてきた大切な道でした。

 

久能山東照宮道の案内碑のある交差点から入る道(写真の路地)が久能山東照宮道だが、「96ケ町」が整備された頃には「八幡小路町」という町だった。

 

 

〇八幡町の町名碑は見つけられなかった。

 

 

華陽院の掛軸の古地図にも「八幡町」と書かれていて、1km南にある「八幡神社」へ通じる参道沿いに栄えた町だった。

 

「八幡小路町」は「96ケ町」の一つに数えられていて、現在、「伝馬町」や「栄町」の一部に変わっている。

「八幡小路町」の町名碑は設置していないのか探したが見つからなかった。

 

 

「鋳物師町」から駿府城に向かう辺りに「台所町」があった。

「鋳物師町」の町名碑の説明地図にも記されていた町。

 

〇台所町の町名碑は見つけられなかった。

 

台所町には町名碑がまだ立てられていないようだ。

戦後間もなく相生町や伝馬町に名を変えた地区。

 

写真の「日吉町駅」は軽便鉄道だった時代に「台所町駅」と言っていた時期もあったようだ。

 

駿府城には「御台所御門」があって、そこへ通じる位置にあったことが町名の由来。

 

 

 

文頭でも書いたとおり「華陽院の絵図」がキッカケで江戸初期の地名に興味を持ったが、自分で撮った画像が不鮮明だったので、鮮明な地図をネットで探していたら有りました。

 

デジタルライブラリーという静岡県立図書館の公開している地図に、ほぼ同時期の地図があった。

詳細 :デジタルライブラリー (pref.shizuoka.jp)

華陽院の絵地図と比べてみると、同じ名前の家が多く書かれていた。

 

〇デジタルライブラリーの地図

この地図は明治になってから上石町の「田形安兵衛」さんが改めて写したものらしい。

「八幡町」や「御台所町」の文字も鮮明。

 

 

以前、華陽院で写真に撮らせてもらった地図を拡大してみたが不鮮明。

やっと文字が読める程度だった。

 

〇華陽院の地図


デジタルライブラリーの地図は専門家が撮影したものなのだろう。

感動するほど鮮明。

今後も利用させてもらおうと思う。


 

次回は隣の「横田町」周辺を訪ねる。