駿河の国で寄り道(37)「草薙 天皇原」(ヤマトタケルその7) | れいんぼうの部屋

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今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。

 

「駿河の国の見どころ」での前回は「ヤマトタケル」にちなんだ地「久佐奈岐神社」を訪ねた。

 

「ヤマトタケル」は各地にいろいろな伝説が伝えられていて、駿河の周辺には関連した見どころが多い。

 

 

今回は「天皇原」周辺を訪ねる。

 

日本平の麓にある草薙神社の境内に「有度地域に伝わるヤマトタケル伝説」という案内板があった。

 

〇草薙神社周辺の「ヤマトタケル」伝説

「有度地域に伝わるヤマトタケル伝説」と書かれた案内板を読む。
地域内には20余りの伝説が伝えられている。
他地域に比較して極めて多く存在し、かつ、草薙地域に集中している。
発祥の時期は不詳であるが、草薙神社の信仰が広まるとともに創作されたものと推察される。

1.    御犬ヶ森 字御犬ヶ谷
 尊が狩りの時、犬を放った所という。かつて犬の栖があったと社記に記されている。(神社の南方)
2.手水ヶ谷 字手水ヶ谷970
 尊が狩りで汗をかいた折、ここの清水で手を洗われた所という。
3.鞍下ヶ谷(鞍卸ヶ谷)字 鐙ヶ谷986
 尊が野火の難に遭った時、鞍より下りた所という。
4.御座の松
 尊が狩りの時、松を折り敷き、憩いをとった場所といわれ、松の下に小祠を建て、大山祇尊を祀り、草薙神社の奥の院という。
5.柳ケ沢
 尊が狩りをした時昼食に柳を折って箸とした所。草薙神社の祭事には必ず柳箸を使用している。
6.首塚稲荷 字東山1124
 尊が征伐した賊徒の首を埋めたと伝えられる場所である。後世、野狐の栖が多くなり、一社を建て稲荷の神(宇迦之魂)を勧請した。

 昔この地から多量の人骨や古武器が出土したらしい。
7.東護の森(社) 字東護1154
 尊が賊徒を鎮圧した後、戦勝を報告し、さらに東方鎮定の祈願をするために、天照皇大神を祀った所という。

 景行天皇40年の創建と伝えられる。
8.駒ヶ原 大字馬走字駒ヶ原
 尊が駒を放ち、草を与えた所という。クマンバラという。
 元は草薙に属したが、何時の時代か馬走に売り渡された土地といわれる。
9.天皇社 字天皇原61番地
 景行天皇が日本武尊を偲び、この地に行幸した時、鳳輦を留めた場所と伝えられ、この地に天皇の神霊を遷した天皇社(明治末年草薙神社に合祀)を建て祀っていた。

 古地名ではこの一帯を天皇原と呼ぶ。
10.古宮 字天皇原56番地
 草薙神社が最初に創建された所。
 古伝では、景行天皇53年、天皇が東国に巡幸の時、日本武尊を偲び社を建てたという。
 現在、小社が存在する。


 

「有度地域に伝わるヤマトタケル伝説」と書かれた案内板を頼りに伝説に触れてみる。

 

先ずは10番目に書かれていた草薙神社の「古宮」を訪ねる。

 

〇草薙神社の「古宮」

マンションの裏手(表かも?)に小さな社が祀ってあった。

 

 

〇古宮(正面)

小さな社の後ろに南幹線(県道407号)が見える。

 

マンションの南端に「古宮」の説明看板があった。

 

〇「天皇原と古宮」の看板

説明看板を読む。

日本の古い歴史書「日本書紀」に書かれている日本武尊の「草薙の剣伝説」にかかわる、由緒ある土地で、草薙川をはさんでこの付近の平な土地を天皇原と呼んでいる。

尊の父「景行天皇」がこの地を訪れ乗物を留められ、日本武尊を偲び神社を建て、尊の霊を祀られ草薙神社と名付けられました。
今、此の所を「古宮」と呼ばれるのは、草薙神社が現在の地に遷座されるまでは此の所にあったので、その名が残っている。
では何時頃遷座されたか、草薙神社建築の記録によると天正18年(1590)徳川家康公が造営されたという、棟札が有り。

また寛政9年秋里籬嶋作・東海道名所図絵・巻四・草薙神社の項に「初めは少し西に神社ありしが天正18年官家(徳川家康)の台命によってここに移す」という記録もあり、その頃遷座されたと思われている。

今は、社と鳥居と両側の樹木が旧草薙神社跡地として守られている。
 

 

〇古宮のある場所は「草薙一丁目」

この辺り一帯を古くから「天皇原」と呼ばれていた。

 

江戸時代にはこの辺の村の名は「草薙村」だった。

今は「静岡市清水区草薙」。

 

「古宮」のあるマンションから東へ100mほど行くと「草薙川」を渡る。

橋の名は「御帝橋(みかどばし)」。

以前に旧東海道を巡った時に大げさな名前だと書いたことがあった。

 

〇みかどばし

今では裏通りになってしまっているが、この橋が架かっている道路は旧東海道。

江戸の頃は反映して多くの往来があったのだろう。

 

ローカル橋の名前としては高貴すぎる。

可燃ごみの収集場所にもなっているようでカラスよけのネットが痛々しさを増していた。

 

〇御帝橋

 

「古宮」の説明看板に書いてあったとおり景行天皇がこの地を訪れていたとすると、この橋にも何かいわれがあるのかもしれない。

 

江戸時代の古地図には、この草薙川は草薙山から流れると書かれていた。

草薙村の人達は今の有度山を草薙山と言っていたようだ。

 

余談になるが

2019年に草薙川上流脇で13万年前の地層にナウマンゾウの牙の化石が発見されている。

 

 

「御帝橋」から150m上流の脇に小さな公園がある。

 

〇天皇原公園

どこの町内にもある児童公園のような小さな公園。

 

〇天皇原公園

名称看板だけが「天皇原」の名を残している。

 

「天皇原公園」から600mほど東側へ坂を上る。

「ヤマトタケル伝説」の案内板の6番目に書かれていた「首塚稲荷」がある。。

 

〇首塚稲荷神社


清水有度第2小学校からさらに100mほど登った所。

 

〇首塚稲荷


看板に由緒が書いてあるので読む。
首塚稲荷神社
所在地・草薙字東山1124番地
祭神・宇迦之御魂  創建・不詳
首塚稲荷神社の由緒に、三ツの言い伝えが有る。
1.草薙神社攝社にて草薙神社略記に。日本武尊東征のみぎり、此の地において地方部族と戦った時の戦死者の首を埋め、塚を作ったと伝えられている。
また北側の谷を流れる小川を血流川と呼ばれている。
2.景山景時が吉川氏に討たれ、大内山にて戦死を遂げた時、乗馬「磨墨(するすみ)」の首を刎ねたところ大内山より飛んでこの地に落ちたという。
名馬を称える伝説がある。
3.今川氏が駿河に栄えた時代の事。
(今川氏親の時代)文明8年(1476)氏親の父7代「義忠」の急死により、世継ぎ問題が起こり氏親(幼名竜王丸)派と小鹿範満(従兄弟)派に分かれて反目した、小鹿氏を支持した有度山東麓の矢部一族は、此の付近にて戦い小鹿氏と共に敗れ去る。後年その時の戦死者の遺骨が散乱し畑地耕作に事欠く始末であったため、村人の手により遺骨を集めて弔った。この付近には、野狐が多く出没したので、稲荷神社を建て祀ったと伝えられている。

 

「首塚稲荷」から坂を下る。

清水有度第2小学校や清水第7中学校を通り過ぎ、街道へ出る直前に看板が立っていて草薙神社参道の事が書かれていた。

 

〇草薙神社参道


看板を読む。
此の絵図にある鳥居は石鳥居で2か所有り東は一里山新田と草薙村の境にあり、西は草薙村と谷田村の境の2か所ありました。東の鳥居は寛政7年9月吉日(1795)西の鳥居は寛政5年9月吉日(1793)・神主森主計宗芳の時、近郷、近在の氏子の寄進によって建てられたが、現在は移転して草薙神社境内にあり。
又此の道は、草薙神社への参道で、東参道の両側に杉並木があったので、現在も草薙杉道の字名が残っている。
駿国雑誌に左記の記録あり(東参道鳥居付近)
「お茶小屋と釜の段」有度一里山新田にあり村の西はずれ南側の石鳥居は、式内草薙神社への道筋で「お茶小屋」という所あり寛永年中、将軍家上洛の時、お茶を差し上げた所で、松並木の内に有り。釜の段に茶臼塚という塚有り、この所に釜を据えて、お茶を立てお茶小屋にて将軍家に差し上げたと言われる。(現在は、第7中学の校庭になっている)
「小田村」江戸時代の村で戸数20軒・人口98名・反別12丁歩余(12000平方米)の狭い村で明治以降独立の村として存立する事が難しかったので行政指導により、草薙村と合併の内命を受け、明治10年2月12日静岡県令大迫貞清氏より許可の指令を受け合併した。

 

 

 

 

今日は「ヤマトタケル」の父「景行天皇」ゆかりの「天皇原」周辺を巡った。

 

駿河の国には「ヤマトタケル」に関わる多くの伝説が有るので、ゆかりの地を巡る。

 

 

次回「駿河の国で寄り道(37)」は清水区の「矢倉神社」