今回のテーマは「駿河の国の見どころ」。
「駿河の国の見どころ」での前回は「谷津山古墳」を訪ねた。
今回は「谷田瓢箪塚古墳」
静岡市内でも至る所で古墳が発掘されている。
古墳マニアでは無いので、見た目のインパクトに惹かれる。
訪ねて満足できる古墳は多くない。
「三池平古墳」と「谷津山古墳」は規模も大きく見ごたえがある。
「谷田瓢箪塚古墳」は規模こそ大きくないが一見の価値がある。
県立大学から200mほど下った公園の中。
県立大学の通学路脇にあるので、若者の往来が多い。
手入れの行き届いた公園。
瓢箪塚古墳
遺跡名称 西ノ原一号墳(前方後円墳)
所在地 清水市草薙字西ノ原31番地
大きさ 直径21.8m(円墳)、幅9.0m~11.5m(方墳)、全長40m
この古墳の築造年代は、およそ6世紀初頭古墳時代の後期と推定されています。昭和52年調査の結果周溝の存在も確認され全体の保存状態極めて良好な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代盧原国(いをはらのくに)と云われ、昔大和朝廷の勢力下に組入られた頃の物語として日本武尊が草薙剣を振って土地の人々と戦った事が古事記、日本書記に記されており、その後日本武尊に副将軍として従った吉備武彦の子孫、意加部彦(おかべひこ)がイオハラ国の国造(くにのみやつこ)となりこの地方を支配したと言われております。
それよりずっと下って西暦663年頃、イオハラの王が健児万余を率い水軍をもって韓国に渡り、唐、新羅連合軍と白村江に戦った記録も有ります。この遺跡はその頃の一時代のもので古墳の被葬者も、古墳の規模から静岡谷津山山頂の古墳・庵原の三池平古墳・嶺の神明古墳牛王堂山古墳と並ぶ、何代目かのイオハラの王の一人と推定されております。
なお、この付近には、古墳が点在しておりましたが畑地・宅地の開発が進み現在は道を隔てた北東側に一ケ所を残すのみとなっております。貴重な遺跡の保存に皆様方のご協力を戴ければ幸いです。
「瓢箪塚古墳」から500m南西に「熊野三柱神社」がある。
熊野三柱神社の南側にゲートボール場とこんもりした小山が「谷田1号墳」。
このあたりには古墳が多い。
三つの古墳が見やすく整備されている。
〇谷田1号墳
説明看板を読む。
谷田1号墳は宮ノ後古墳とも、いわれている古墳で6世紀の後半に築造されました。全体では、50基以上にものぼる谷田古墳群の中のひとつです。
この古墳には横穴式石室と呼ばれる石を積んだ室があり、ここに死者を葬るようになっています。
横穴式石室からは、直刀、須恵器(坏・堤瓶)土師器などの副葬品が出土しました。
「1号墳」のすぐ近くに「2号墳」がある。
〇2号墳
「52号墳」もある。
〇52号墳
この他にも古墳が多い。周りには文化施設も多く、巡りながら探索してみる。
「53号墳」は「1号墳」の隣にある。
「1号墳」から200mほど坂を上った林の中に「17号墳」がある。
谷田古墳群の1基で、丘陵の端に位置し詳細な調査は実施されていませんが、墳丘(径約3m)を良好にとどめる古墳時代終わり頃の円墳です。
ロダン館の裏山の遊歩道を登るとすぐに古墳がある。
最初は見逃して登りすぎた所に県立大学の薬草園があって散歩する老人に古墳の在りかを問うと案内してくれた。
〇54号墳
〇谷田55号墳
説明書きを読む。
谷田地区には6世紀代から8世紀初め(約1500~1300年前)にかけて多数のの古墳が造られました。特に、西側から南側にかけての斜面には、小さな古墳が密集しています。
谷田54・55・56号墳は、美術館周辺の環境整備事業に伴う調査によって新たに発見されたものです。墳丘はほとんど削り取られていましたが、遺体を埋葬するための石室(横穴式石室)や墳丘を取り囲む周溝が確認され、7世紀後半から8世紀初めに造られた円墳であることがわかりました。律令体制に組み込まれていく地域社会の様子を知る重要な資料であることから、墳丘を復元して古墳の位置を明示することとしました。
〇58号墳
奥に見える三角屋根は「ロダン館」
谷田古墳群は番号でもわかるように50を超える古墳を数えているが、姿を見ることが出来る墳墓の数は少ない。
次回「駿河の国で寄り道(29)」では「宮川古墳群」へ行く。