駿河の国で寄り道(13)長谷通り | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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前回たどった「最古の東海道」は

府中宿として今の街の骨格ができる以前における賑わいの中心だった「安倍の市」から西へ向かうルートだった。

 

「安倍の市」から東へ向かうルートも時代によって、いくつかのコースがあった。

 

その一つが浅間神社の参道として栄えた、楼門の正面を南下する「長谷通り」

 

今回は「長谷通り」周辺を巡る。

 

 

先ずは浅間神社から出発。

 

今年は桜の開花が早く、静岡まつりが開催される前に花見に出かけた。

いつもは閑古鳥が鳴いている「静岡市文化財資料館」が改装、「大河ドラマ館」として開館していて賑わっている。

 

〇大河ドラマ館

 

 

浅間神社の楼門前にある石造りの鳥居が「長谷通り」の北の入口になる。

 

〇石鳥居と浅間神社

長谷通りから見る浅間神社。

左の石組みの塀は西草深公園。

 

〇西草深公園徳川慶喜公屋敷跡看板


浅間神社の正面。石鳥居のすぐ脇に西草深公園がある。

第15代徳川将軍の徳川慶喜公が明治になってから住んだ屋敷がこのあたりにあった。

説明看板を読む。(概略)
「草深町」は、「駿府96ケ町」の一つで、現在の西草深公園の東側に、二筋の通りに面して一画を占めていた。

駿府城に近い草深町の近辺には、1651年に駿府城の警護や城下の治安維持にあたった加番の一つ「二加番」や与力・同心などの武家屋敷が配置されていた。
草深地区には江戸時代初期に徳川家康公に仕えた儒者「林 羅山」の屋敷があった。

徳川慶喜公は、1869年に紺屋町の元駿河代官屋敷に移り、さらに1888年にはこの西草深町に屋敷を構えた。

 

 

「長谷通り」に入ってすぐの「しき」という化粧品屋の裏に若宮八幡宮がある。

 

〇若宮八幡宮

 

浅間神社の主祭神である神部神杜の創建以来幕末まで代々神主を勤め、90代も続く旧家「志木家」ゆかりの神社。

看板を読む。(概略)
西暦91年に天社國社の制が定められた時、駿河の国の神部神社の神主だった志貴家の祖先がここに居宅を構え稚日女尊、大己貴命を勧請鎮座したのがこの神社の創祀。

後に誉田別名と併せて奉祭し若宮八幡宮と称するようになった。
徳川家康公駿府社城の頃は鷹狩等の途次屡々神主邸に立寄り大楠の木陰で休息されたと伝えられている。
境内の楠の大樹は推定樹齢2000年周囲10m余り、静岡市指定の天然記念物。1845年の駿河名木番付にすでに東の小結として記載。

 

 

長谷通りに戻った所に昭和の現風景。銭湯が今でも営業している。

 

〇天神湯

 

「天神湯」から100mほど東へ進んだ信号がある交差点の角に石柱が立っている。
 

〇国府阯の石柱

「向かって 右 国府阯 此の奥26m 左 国分僧寺阯 此の奥 30m」と彫られている。 

 

石柱から20mほど西の細い路地を入った所に寺がある。
 

〇国分僧寺阯・国府阯

「龍頭山 国分寺」という真言宗醍醐派

 

奈良時代に全国へ造ったとされる国分寺とするとかなり寂しい寺ではあるが、どこにも説明がないので謂れはわからない。
長谷通りにある石柱からすると国府だった国分寺の名残りなのかもしれない。
最近の発掘によって、駿河区大谷にある片山廃寺跡が国分寺だったという説もあるが、その他の史跡の存在などから、時代を変えて両方とも存在したのかもしれない。
 

 

後になって検索してみたら、葵区研屋町の「顕光院」が作っているサイトに「国分寺」の謂れが書かれていた。

「顕光院」のサイトに書かれていた説明を読む。(概略)

1568年駿府に侵攻した武田軍が国分寺を焼き払った。

その際に、鉄製4.8mの本尊は鋳潰され、残った頭部は池に捨てられた。
1610年、徳川家康が国分寺を再興し、本尊には池から掘り出された本尊の頭部と、行基作という木製の薬師如来が祀られた。

明治時代になると寺は事実上の廃寺となり、本尊は音羽町の清水寺に遷座された。

あとには地蔵尊のお堂だけが残されたが、1985年にお堂を中心として、国分寺が復興した
この地蔵尊は石造りの立像で、高さ約280㎝、「家康の手洗い鉢」というエピソードが残されている。
 

 

長谷通りに戻り東へ100mほど進んだ静清信用金庫の前に石柱が立っていて「駿府薬園阯」と書かれている。
 

〇駿府薬園阯

家康は薬草にこだわりをもっていて、かなりの博学だったと伝えられている。
そして、このあたりに江戸幕府直営の薬草園が創設された。

家康の没後一時衰微したが、1726年に拡張・整備され、海外渡来の薬草も栽培するようになったが、1864年に廃止された。

 

「駿府薬園阯」から200m東進した信号を左折すると間もなく小さな森が見える。熊野神社だ。


〇熊野神社

普通の村社のような造りの神社だが、取り巻く空気は厳粛な雰囲気を作っている。

説明書きを読む。(概略)

創建の年月日は不詳であるが、711年の棟札が現存している。

紀州の熊野那智大社に1506年の古文書にこの神社の記載がある。

駿河国新風土記には「この社古くは大社にして社人・社僧もあまたありしといふ」と記載されている。
明治維新後、静岡に閉居した15代将軍徳川慶喜公から木造の鳥居1基の奉納がある。

 

 

今回は「長谷通り」周辺を巡った。

 

次回「駿河の国で寄り道(14)」では「北街道」を進んでみる。