駿河の国をwebで歩く(65)「興津宿・清見寺門前町」 | れいんぼうの部屋

れいんぼうの部屋

釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

**********************************

上の古地図のリンクを開いて「興津宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「興津宿・清見寺門前町」へ入る。
 
 

前回は「興津宿編の横砂村、尾羽村」周辺を巡った。

 

 

旧東海道は国道1号線バイパスの高架下を抜け波多打川を越えると「興津宿」に入る。

 

古地図には「濁沢村」が描かれているが明治の初めに「清見寺町」に併合されていて、目立った施設も無いので正確な位置が分からない。

 

清見寺にちなんだ「興津清見寺町」を進む。

読み方は「おきつせいけんじ」と言う。

 

〇旧東海道




興津に入って500mほど進むと「座漁荘」が右にある。

〇興津宿座漁荘

看板を読む。
静岡市座漁荘記念館 西園寺公望公別邸 興津座漁荘

西園寺公望公(さいおんじきんもち)(1849~1940)。

右大臣徳大寺公純の次男。自由主義の政治家。

座漁荘は、西園寺公が70歳になった1919年に静養の家として風光明媚な清見潟に建てた別荘。

座漁荘は、「明治村」に国の登録文化財として移築されたが、記念館として、かつてあったこの地に復元し公開している。

 
〇興津宿座漁荘の落ち着いた和室から庭を見る。


 

○興津宿座漁荘の洋室からも庭を眺める。

明治時代にはこの庭の前に海が広がり三保や伊豆が正面に見えていたとのこと。

 

○興津宿座漁荘の庭から

 
旧東海道へ戻り、興津宿を進む。


〇座漁荘を過ぎると蔵のある建物が目に付く。

宿場へ入ったと感じられる。

 

清見寺の少し手前の道路脇に石碑が建っている。
 

〇高山樗牛の碑

「たかやまちょぎゅう」と読む。石碑に刻まれた文字を読む。
樗牛(ちょぎゅう)は清見潟の風景をこよなく愛し
明治30年中秋当處の三清館に假寓して清見寺の鐘声を聞いた
三清館の所在地より南方の20m付近にあった。

 

古地図でも描かれている「清見寺町」の由来となる「清見寺」。


〇街道から見た臨済宗妙心寺派「巨鼇山 清見寺」。

由緒ある雰囲気を持っている。
 

〇清見寺の門だけ単独で建っている。


この門の向こうにJRが通っていて、寺へは橋を渡って行くことになる。
 

入口の門の案内看板を読む。大人300円とある。
名勝庭園 滝が流れ落ち池に注ぎ家康公が5木3石を配置
大方丈  朝鮮通信使偏額多数展示、家康公手習之間保存
書院   静岡市指定文化財、天皇陛下御宿泊玉座の間あり
潮音閣  眺望が素晴らしい、眼下に駿河湾と三保の青松
     右に日本平、左に遠く伊豆の山々を望む

 
〇清見寺の本堂

鐘楼は江戸末期に再築されたが、麓鐘は秀吉のゆかりもあるとのこと。
鐘楼の前には家康お手植えと伝えられる梅もある。
当山は臨済宗で、古来より景色の美しさで名高かった。寺の始めは古く奈良朝時代此地に関所が設けられ其の守護として傍に仏堂が建立せられたのが始めと伝えられる。
而し寺として基礎の固まったのは鎌倉時代(1264)後足利尊氏此の寺を再興(1342)徳川時代を経て今日に至った。その間幾度か戦禍を受けたるも、再建復興して来た。
境内概観
山門 慶安4年(1651)建立
仏殿 天保13年(1844)建立
大玄関 元和2年(1616)建立
大方丈 文政11年(1828)建立
鐘楼 文久3年(1862)建立
五百羅漢 天明8年(1788)建立
観音銅像 昭和13年(1938)建立
臥龍梅  徳川家康手接
名勝庭園 江戸初期作庭



〇大正天皇ゆかりの碑


「大正天皇在東宮海水浴御成道」と書かれた碑が立っている。
かつては有名な海水浴場があった。
 

清見寺の前に興津宿の名所看板がある。

 

〇興津宿看板

読む。

<興津の歴史>
興津は、東海道53次のうち17番目の宿場町、興津郷とも称される。「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていた。
興津川の下流部にあり、清見山下の清見関は坂東への備えの役割を果たした。
鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、薩った山に警護関を設置した。
1601年東海道の宿場町として発展した。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝。
<興津宿の規模>
東海道17番目の宿場。

東の由比宿まで2里の距離。その過程に親知らず子知らずの難所「薩った峠」がある。

西の江尻宿には1里2町。

興津宿の宿内、町並みは東西に1.2km。人馬経門屋場1ケ所、問屋2軒、年寄4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立人馬100人100匹
1843年の宿内家数316軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人数1668人(男809人女859人)。

<清見寺>
7世紀、鎮護の関寺として清見ケ関とともに仏堂が建立されたのが創建。

徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていた。

清見寺には、家康が愛した清見寺庭園(江戸初期の)や、家康手植えの臥竜梅、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財がある。

五百羅漢は、それぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実の熟する時」の一節にも登場する。

<座漁荘>
大政治家西園寺公望公の晩年の別邸だった座漁荘は1919年に建てられ、以来1940年92歳でなくなるまで22年間の住居として利用された。その間、唯1人の元老として天皇の諮問に奉答していた。
座漁荘には、歴代の総理や重臣の往来が激しく「西園寺詣で」「興津詣で」の言葉が生まれたほどだった。
<興津の海と明治元勲達の別荘地>
東海道線が静岡まで単線開通したのは明治22年。この時、興津駅が開業した。

また同年に、皇太子(大正天皇)が来清。清見寺に滞在され興津の海(清見潟)で、海水浴を楽しまれた。

興津は元勲達の別荘地として賑わい、興津からの海の眺めをこよなく愛し、しばしば水口屋に投宿した。

この縁がきっかけで、伊藤博文、井上馨、松方正義が別荘を建て、興津はさながら「明治の元勲達の別荘地」の様相を呈するようになった。
<日本3大並木・プラタナス並木>
興津駅北側にある農林水産省果樹試験場には、日本3大並木の一つ、プラタナス並木がある。

また、アメリカのワシントン市のポトマック河畔に植えられた桜と兄弟のウスカンザクラ、桜のお礼に送られたアメリカヤマボウシ(ハナミズキ)など、貴重な樹木が多くある。
<宗像神社>
海上航海の守護神である築紫の宗像神を勧請したもので平安中期の創建。

祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の御子沖津島姫(みこおきつひめ)ら3女神。

 

 

今回は「清見寺門前町」周辺を巡った。

 

 

次回は、「興津宿」の続き。

 

 

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
*****************