駿河の国をwebで歩く(57)「江尻宿・志みず道」 | れいんぼうの部屋

れいんぼうの部屋

釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

**********************************

上の古地図のリンクを開いて「江尻宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「江尻宿」の「志みず道」へ入って周辺を巡る。
 
 

前回は「江尻宿編」の「上野原村」と「元追分村」周辺を巡った。

 

清水で追分と言ったら、静岡の3大銘菓の一つ「追分羊羹」。

 

〇追分羊羹

旧東海道沿いにある本店。

 

「追分羊羹」の店の脇に石碑が立っている。

 

〇「是より志三づ道」と書かれている道標


この場所は東海道と清水湊への道「志みづ道」の分岐点であり、「追分」の地名の由来になる。

 

「志みづ道」はこの路地を進む。

 

 

志みづ道に入って100mほど直進し、小学校が左側に見えると水路に沿って左へ折れる。
 

〇志みづ道の左のブロック塀は清水入江小学校。
 

「さくらももこ」の母校とのこと。まるちゃんはここがモデル?

防災対策のためか、今はブロック塀が撤去されて金属製の柵になっている。

 

 

小学校脇の「志みづ道」から直線距離で50mの静鉄線路脇に「東泉寺」がある。

直接「志みづ道」から入れないので回り道になってしまう。

 

〇臨済宗妙心寺派「端陽山 東泉寺」

この寺は以前「入江岡」から移転してきたようだ。

「駿河一二薬師霊場」の一つ。

 

古地図にも「薬師」を伴う「東泉寺」が「入江町」の南に描かれている。

 

 

小学校を過ぎた所の鉄道の踏切を「志みづ道」は渡る。

 


踏切を渡る前に桜橋駅の近くに大きな木が並んでいる神社が見えるので寄ってみる

 

 

村松稲荷神社

鳥居の横に由緒の書かれた看板が立っている。(概略)
戦国時代武田勝頼の家臣穴山梅雪が江尻城の廃城の際、文殊をこの神社へ遷したと伝えられる。

以後徳川家及び近郷の入江家が文殊稲荷神社として尊崇した。

 

この神社は「東入江館跡」でもあるらしい。

 

相変わらず狭い道を100m進むと化粧舗装されているコミュニティ道路に出る。
 

〇清水文化センター前の北側の道。

 

〇志みづ道は県道197号を横切る。

狭い道に広い間口の塀の家が所々にある。
江戸時代には往来が多かったことを想像しながら進む。


来た道を振り返って見てみる。

 

〇志みづ道

右は入江岡町、左が上清水町。

志みづ道は100mほど東へ進むと突き当たる。

 

この道は旧東海道の江尻宿から来る県道75号(久能道)と合流する


県道75号は旧東海道から「久能道」を主要道路として整備したものだが、ここで「志みづ道」と合流。
この50m先で左へ曲がる狭い路地が「志みづ道」で、そちらが県道75号となる。
2車線の「久能道」は県道から市道へと変わり真っ直ぐ進む

 


県道となった「志みづ道」は狭い道を清水湊へと向かう

 

〇上清水町

この青い塀は改修されて今はスッキリした柵に変わっている。

 

〇札の辻跡

「久能道」との交差点にはかつて札の辻があったらしい。

看板が設置されていたので読んでみます。(概略)
<上清水村 札の辻跡> 

上清水の旧家望月家には、徳川幕府に替って政治を行うことになった明治政府が布告した立て札が残されている。

 

 

札の辻のすぐ先の北側に上清水八幡神社がある。
この神社の創建は平安時代からともいわれている。

 

古地図にもこの「八幡」は描かれていた。

 

〇上清水八幡神社

鳥居の脇に由緒書きがあった。(概略)
834年前、源の八幡太郎義家の勧請により建立。

誉田別命応神天皇を祭神とし、配社相殿に素盞鳴命(八雲神社)、境内社として稲荷神社外3社を祀る。
義家手植の楠は清水市文化財の指定を受けて居る。

寛文12年徳川4代将軍家綱の意を受け清水船手奉行細井左次右エ門が現存社殿を再建した。
徳川家から奉納した葵定紋付の御簾は本殿に蔵置、細井奉行寄進の額面は拝殿正面に掲げられている。

 

 

「上清水八幡神社」先の路地を北に入って行くと「チャンチャン井戸」と呼ばれる井戸がある。

 

路地を50mほど進むと浜田小学校の校庭が見えてくる。

さらに50m北。

 

〇チャンチャン井戸

浜田小学校のグラウンド前の住宅の敷地内に井戸の跡があった。

説明書きを読む。(概略)
このあたり(旧上清水村)は、昔から水の少ないところで、掘井戸にしても、しぶみがあって飲み水には適さなかった。

800年ほど前に、この地に流れついたひとりの旅の僧を村人が助けた。

僧は恩返しにとチャンチャンかねをたたき経を唱え、村人が困っている水を探し歩き見つけた井戸を「チャンチャン井戸」と呼ぶ。

「清水」という地名も、これから起こったとも伝えられている。

 

 

「志みづ道」に戻って進むと禅叢寺を避けるように道がクランクしている。

 

〇臨済宗妙心寺派「白華山 禅叢寺」

湊からやって来ると正面に寺の門が向いている。
この寺には「次郎長」「白隠禅師」「山本勘介」などとかかわりがある

 

本堂の脇に寺の由緒が書かれた板があったので読む。(概略)
白華山禅叢寺は臨済宗妙心寺派で1531年、岡部美濃守盛長公を開基とし鎌倉建長寺雪心和尚の開山として創建。

準開山(2代)九岩和尚は織田信長の3男神戸信孝の孫であると過去帳に記され、子孫は現在もつづいている。

境内には良質の水が湧く井戸があり上町、浜清水住民の飲料水や入港船への補給水として用いられ竹桶による通水も行われた。
白隠禅師19才で当山衆寮に掛塔し、以来度々当山を訪れている。

次郎長幼年時代手習に通ったと伝記にある。

 

 

「柳宮通り」の信号を越えると左手に「専念寺」がある。


 

〇専念寺の門

浄土真宗大谷派「堀江山 無量寿院 専念寺」。
塀には「旧しみず道」の看板があって、この道で間違っていないことがわかる。

 

 

専念寺から100mほどで、昔栄えた商店街のような所を通って巴川に出る。

昔ながらの石橋。乗用車がやっと擦れ違うことができる程度だ。

 

〇萬世橋

「よろづよはし」と橋の欄干に記されていた。

 

東京の神田川に架かる「万世橋」は「まんせいばし」と読むが、昔は「よろずよばし」と呼ばれていたとのこと。

清水の「万世橋」は今でも昔の読みを伝えている。


最初は「万世橋」が「志みず道」の終点と思っていた。

江戸時代にこの橋は無く、この周辺は目的地として華やかさが残って無く違和感を感じた。

 

実は専念寺を過ぎてすぐの交差点で「志みず道」は右へ曲るのでした。
 

曲ってすぐの「上一丁目自治会」の掲示板に「旧しみず道」の札が付いているのを見逃していた。

 

〇上一丁目自治会の掲示板 

 

 

「志みず道」を南へ進むと間もなく県道197号線と交差する。
先ほど清水市民会館の前で横切って来た道が曲ってここへつながっている。

 

〇県道197号線との交差点

清水の県道は曲がってばかりで複雑に入り組んでいて理解が追い付かない。

県道197号線はこの先で「八千代橋」によって巴川を渡る。

 

〇県道75号線

「志みず道」はこの車両進入禁止を南下する。
ここの「志みず道」は県道75号線なのに一方通行なのだ

※ 写真のコンビニは他の店に変わってしまっている。

 

住宅街を進む。
 

提灯がぶら下がっていて居酒屋でもあるのかと思ったら、提灯を作っている所らしい。
 

〇「提灯のびら一」と書かれていた。

 

「志みず道」はクランクし右左折を繰り返して進む。
昔は区画されずに蛇行して進んでいたのかもしれない。

 

右に寺の入口がある。
〇古地図にも描かれている真宗の「恒河山 妙生寺」

 

 

「志みず道」は神谷生花店へ突き当たる。
神谷生花店の横に石柱が立っている。


〇古地図に描かれている「浄土宗 忠高山 蓮座院 実相寺」と彫られている。

 

神谷生花店前で左折するとすぐに出会う商店街は「次郎長通り」と呼ばれている。

 

次郎長通りへ入って100mほど行った所に寺へ向う路地がある。
 

〇古地図に描かれている日蓮宗「円教山 妙慶寺」

 

この建物が次郎長の生家跡。

 

生家跡には説明書きが書かれている。

<清水湊 次郎長生家博物館>
 山本長五郎は、1820年(文政3年正月元旦)この家に生れました。
 江戸時代の清水湊は、この付近の巴川河岸であり、ここ美濃輪町一帯には廻船宿30戸が軒を連ね、上流の上町、本町には廻船問屋が集まっていました。実父の髙木三右エ門は、自前の船で業を営む船持ち船頭でした。
 長五郎は8才で山本次郎八(米屋「甲田屋」を営む叔父)の養子となり、次郎八さんちの長五郎、つまり次郎長とあだ名されました。
 安政地震(1859年)の後に修繕したと伝えられるこの家は、表通りに面した帳場と住まい、中庭、船道具を置いた裏(屋敷)をぬけて中通りへ、さらに浜通りへと通じ、巴川を隔てた向岸には、咸臨丸壮士之墓があります。
 館内の、次郎長半生の偉業を記す資料など、清水湊の歴史の証人です。
 館長名 服部千恵子  商店名 次郎長生家

 

次郎長の生家から100mほど南に「美濃輪稲荷神社」の鳥居がある。

この「稲荷」も古地図に描かれている

 

〇美濃輪稲荷神社

 

今は「次郎長通り」として商店街が形成されているが、古地図の年代には次郎長以前の時代だった。

 

古地図に江尻宿と同様に栄えた街並みが描かれている。

 

「志みず道」の目的地だった「清水湊」はこの周辺になる。

 

 

次回は東海道の「江尻宿」に入る

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
*****************