「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。
***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。
https://stroly.com/users/9756472369/
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今回は伝馬町から横田町へ進む。
前回巡った久能山東照宮から伝馬町通りへ戻る。
「つつじ通り」を境に「伝馬町」から「横田町」へ入る。
〇つつじ通り
〇西宮神社
静岡にも西宮神社がある。本場西宮と同じえびすさんを祀ってある。
「おいべっさん」と呼ばれる。毎年10月19日と20日にはエビス講の縁日が行われ、「ご縁起」と呼ばれる祝鯛や千両箱、お福の面、小判などを吊るした飾りを買って帰る参拝者で賑わう。
〇だるま屋
西宮神社の前には縁起屋がある。
〇伝馬町通り
西宮神社とだるま屋前の伝馬町通り。
このあたりは横田町。平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に載っている「横田郷」が由来の町名。
律令制度の時代から駅として発展していた。
〇猿屋町の由来
伝馬町通りの歩道にかつてこの辺りにあった「猿屋町」の説明書きがあったので読む。
町名は、猿引きの住む町であったことに由来します。
猿引きとは、正月に家々を回り、猿に舞わせて一年の安泰を祈る芸能のことで、猿廻しとも呼ばれます。
〇伝馬町通り
伝馬町通りは「きよみずさん通り」と出会い、真っ直ぐに進む。
この先で国道1号線に交差する。
このあたりから、かつては下横田と呼ばれていた場所。
旧東海道を逸れて「きよみずさん通り」へ入り、古地図にも描かれている「清水寺」へ寄り道。
「きよみずさん通り」は「音羽町」という町名になり、道路脇の大きな松が寺の入口の目印になっている。
〇清水寺
「音羽町」の町名は「音羽山清水寺」から由来する。このあたりは府中宿ではなく旧豊田村南安東に属していたようだ。
「音羽山 清水寺」は高野山真言宗の寺。
寺の入口に由緒が書かれた看板があったので読む。(抜粋)
<音羽山清水寺>
清水寺は、1504年、印隔法印が開いた壇林(学問所)の古地に、当時今川8代守護大名氏輝の遺命によって1559年に家臣の朝比奈丹波の守元長が創建し、開山は、京都から迎えられた尊寿院大僧正道因。
この地の眺望がすばらしく、京都の音羽山清水寺に似ていたので、その名がつけられた。
境内には、1602年、徳川家康が建立した観音堂をはじめ、薬師堂・聖天堂・霊牌、金比羅神社、熊野神社などがある。
〇鐘楼
〇観音堂
〇境内には至る所に句碑がある。
「駿河路や はなたちばなも 茶のにおい」 芭蕉
「雪の旅 杖一本の 命かな」 詩三
「名月や 心一つの 置きどころ」 月巣
etc.
散策道を登った頂上広場に古墳がある。
〇古墳
中央にある小山が谷津山古墳群のうちの4号墳。
広場から西側へ下ると展望台のような所がある。
舞台の下から滝が流れ出していて清水公園の一角に滝壺がある。
古地図を見ると清水寺の北に「横内町」という集落があり「来迎院」という寺が描かれている。
現在も変わらず横内町と言い、清水寺から500mほど北にある。
〇横内町・来迎院
看板に説明書きがあったので読んでみます。(一部抜粋)
この寺は1611年徳川家康公が創建されたもので正しくは大用山英長寺といい古くから横内の来迎院として親しまれて来た浄土宗の寺院。
本尊の阿弥陀如来様は聖徳太子の作と伝えられている。
創建当時の寺域は1900坪、及び境内に繁茂する揚梅の木は家康公のお手植。
古地図でも寺の横に「御手植 揚梅」と書かれていた。
説明書きにも書かれていたので探してみたが表の境内には見つけられなかった。
来迎院の山門を入ってすぐの右側に筆塚と隷書で書かれた石碑が立っている。
書は「幽渓書」との落款がある。叙勲受章者「青木幽渓先生」の書だった。
門前近くの歩道脇に石柱と説明看板が立っているので読む。(一部抜粋)
<北街道と横内川>
北街道は中世以降、近代初期まで約750年間にわたって「東海道」の役割を担う街道。
1601年、東海道53次が制定された以降も北街道として利用されてきている。
横内川は400年前、家康公の命により駿府城築城に際して造られた運河で北街道の真ん中を流れていた。
江尻湊から船荷を巴川畔の川合で横内川に積み替え、駿府城の堀までの運搬水路として使われた。
昭和の中頃全線暗渠となり、その姿は消えた。
「きよみず通り」を「旧東海道」との交差点まで700mほど戻る。
「伝馬町通り」を東へ進むと200mで国道1号線に出る。
この辺りに「府中宿」の「東見附」があったらしく国道を渡る歩道橋の下に説明書きの標柱が立っていた。
概略して読む。
府中宿は、東海道最大規模の宿場。
ここ横田町は、駿府城町に入るための東の入口である「 東見附 」が置かれていて、新通り川越町の「西見附」まで二十七の町で構成されていた。
府中宿は「東見附」から「西見附」まで4km近い広さがあったということになり、当時の賑わいがうかがえる。
東見附は枡形で、構成する石垣は高さ2尺の土手の上に3尺の石垣を積み、その頂部は屋根形、底部の幅は9尺であった。
古地図を見ると東海道に「下横田町 東見附」と書かれ、街道の両側に枡形が描かれている。
〇下横田・東見附
国道を越えるとすぐにJRの線路の下をくぐる。
昔はここに踏切があり、下横田の踏切と呼ばれていた。
次回は「南安東村」へ進む。
*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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