駿河の国をwebで歩く(24)「宇津ノ谷峠」その3 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「丸子宿・宇津ノ谷峠」を選択して散歩する。
 
 
今回は「宇津ノ谷峠」の「蔦の細道」周辺を巡る。

 

宇津ノ谷トンネルの手前にある「道の駅」の脇から「蔦の細道」は始まる。

 

〇道の駅

 

〇蔦の細道の静岡側の登り口は遊歩道のような場所から始まる。

 

登山口にある看板の説明を読んでみる。
<旧東海道(大名街道)>  この道は、駿河国の安倍郡と志太郡の境にある宇津ノ谷の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。
 一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津ノ谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。(以下略)

 

蔦の細道の静岡側の登り口は遊歩道のような場所にもある。

 

宇津ノ谷峠周辺には色々な場所に観光案内看板があって、いろいろな説明がある。(要約)

 

<古代・中世の東海道>
律令時代の官道として整備され、「伊勢物語」以来、数多くの文学作品に「蔦の細道」「蔦の下道」として登場する道。

道筋を確定することは難しいが、この道が基本となって近世の東海道へと発展していったと考えられている。
<蔦の細道>
古代・中世(約700年~1590年頃)の東海道。
古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人在原業平が「伊勢物語」にこの峠道の事を書きしるしている。

<つたの細道・在原業平の歌碑>
伊勢物語の主人公、在原業平が「東(あずま)下り」の途中で詠んだ「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢わぬなりけり」の句碑がある。

 

〇昼なお暗い森の中を登る。

 

〇このように沢で荒れてしまった道が続いている所もある。

 

頂上まであと少しといった所に「蔦の細道の文学」を説明した看板が立っていたので読んでみる。
在原業平より約400年後(鎌倉時代1182~1333)
藤原定家の子、為家の側室阿仏尼は鎌倉幕府への旅に出た時に不安の中で読んだ句。

当時日本は元が来寇して来た。文永、弘安の両役の最中だった。物情騒然殺伐たる東海道での女旅。建治3年(1277)10月のことである。(出発日が16日だったので、この日記を十六夜日記という。
「宇津の山越ゆる程にしても、阿闍梨の見知りたる山伏行きあひたり、夢にも人をなど眷をわざとまねびたらん心地して、いとめづらかにをかしくもあわれにもやさしくも覚ゆ。急ぐ道たりといえば文もあまた、え書かず、やんごとなき所一つにぞ、おとづれ聞こえる。」
  わが心 うつつともなし 宇津の山
   夢にも遠き 都恋ふとて
  つたかえで しぐれぬひまも うつの山
   涙に袖ぞこがるる
 こよひは手越という所にとどまる。なにがしの僧正のとかや上り給ふとて、いと人しげし宿かりかねたりつれど、さすがに人のなき宿もありけり。26日藁科川とかや渡りて興津の浜に・・・

 

文章が難しく、分かったような分からないような昔の文章が書かれていた。

 

しばらく山道を登る。

 

林の中から峠方面を見る。


息を切らして暗い山道を登り続けると明るい光が射してきて、峠へ出た喜びを感じるシチュエーション。

 

〇道に迷わないように表示板が立っている。

 

〇市境の峠を越える。

 

峠の頂上には少し休める開けたスペースがある。
 

〇遠くを見ると藤枝方面が見える。

 

中腹まで来た所に「猫石」と書かれた岩がある。
猫が伏せているような形をしていると言う人や、ここに猫がいたからという説がある。

 

古地図にも猫石が描かれているが、峠より静岡側に描かれていた。

 

〇猫石

 

 

石畳で山道を保護している。
歩きやすいような、歩きにくいような。
雨で道が流されないし、雨の後でもぬかるんだりしないので滑らずに歩けるだろう。

 

〇岡部側の蔦の細道は石畳が敷かれている所が多い。

 

道を下るにつれて道幅が広がり、急な坂の箇所がある。

 

〇石畳が敷き詰められているが、整備されていないので歩きにくい。

 

往来の多かった時代には、もっと手入れされていて歩きやすかったのだろう。

 

〇登り口に看板が立っていた。

 

説明看板を読む。(抜粋)
蔦の細道は宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、峠は標高210m、勾配24度、道のり約1500mで、文学の名所として著名である。
「伊勢物語(第9段東下り)」の一節に「ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗きに、蔦かへでは茂り、もの心細く・・・
  (中略)
駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあわぬなりけり 藤の山を見れば、5月のつごもりに、雪いと白うふれり。
時しらぬ山は藤の嶺いつとてか 鹿子まだらに雪のふるらむ」とあるが、この文と歌が「蔦の細道」のいう名の起りといわれている。

 

 

つたの細道の登り口から、昼間でも薄暗い渓流の支流に沿って細道を200mほど進むと「つたの細道公園」が左手に見える。



〇ら径記碑跡。


 碑に書かれた文章を読む。

 蘿径記碑は文政13年(1830)、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末永く残すために建立した石碑です。
 「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります。

 

〇坂下地蔵堂の脇に出る。

 

坂下地蔵堂の裏に「蘿径記碑」があるとのことなので探してみた。

 

〇蘿径記碑

碑の横の説明を読んでみる。

何の山か蔦、楓の径無けん、而して此の特に後世に著しきものあに、在五中将の詞藻の故を以てするに非ずや。按ずるに其の伝に曰く 中将体貌関麗、和歌を好む。其の勅を蒙り東下するや命じて曰く「歌枕を求めて還れ」と。而して勢語(ばいご)も亦載す。(中略)

宇津の山を過ぐ、因て所謂、蘿径なる者を訪う。なげき有り。曰く詞藻の微、猶よく古道を千歳の下に存す。いわんや、其れ、詞藻に大なる者をや。後のこの径を過ぎて、余とこの心を同じうする者、いずれか。すなわち、一石を樹てて以って、その口を表すという。

 

 

丸子・宇津ノ谷の古地図も今回で終わり。

 

次回は街道を進み、いよいよ「岡部」へ入る。

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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