駿河の国をwebで歩く(12)「弥勒町」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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古地図のリンクを開いて「府中宿」を選択して散歩する。

 
前回は弥勒に入った所にある「弥勒緑地公園」にある石碑や看板を見て歩いた。

 

弥勒は見どころも多く今回は周辺を巡る。

 

弥勒緑地から安倍川方面へ向かって間もなく橋の手前に安倍川もちの店が何軒か並んでいる。

 

〇石部屋は古くから営業している安倍川もち屋


安倍川もちと言えば、きなこと砂糖でまぶした餅で美味しいが、石部屋で出してくれる「からみもち」が特に美味しい。
「からみ」は大根ではなく静岡名産のワサビでゆでた餅をからめて食べることから、お土産にできないのが残念だ。

 

〇義夫の碑


この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。説明書きを読む(抜粋)。
江戸中期、ある旅人が150両の大金を持って安倍川を渡った時に、大切な財布を落とした。

近くにいた人夫の一人が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津ノ谷で出会い財布を渡した。
旅人が礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落とし主に帰すのは当たり前の事だ」と言って、その人夫が受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届け町奉行が礼金を渡そうとしたが受け取らないので、代わりに奉行所からほうびの金を渡した。


〇安倍川橋、通称「みろくばし」として親しまれてきた。


弥勒の宮崎総五が1874年に造った木橋安水橋がその前身で、幅2間、長さ280間の有料橋であった。橋銭は一人4厘、馬車4銭5厘。工費7千円だったが1896年に県へ移管されて無料となった。
県は1923年に幅7.3メートル、長さ490メートルの鉄橋に改築し安倍川橋と改称し現在に至る。

 

〇安倍川の変遷の看板


橋のたもとに弥勒橋を建造した宮崎総五頌徳碑があり、そのすぐ脇に安倍川の変遷について説明されている看板が立っている。(抜粋)
安倍川は川筋を時代ごとに変えながら静岡平野を扇状に造って来た。
その昔、安倍川は現静岡市中心部を流れて海に注ぎ、藁科川は現在の流路を流れ海に注いでいた。
室町時代に今川氏が平野の高い部分に城を築こうとして、幾条にも流れていた安倍川を西へ追いやり、現在の流れになった。
さらに17世紀はじめに徳川家康が駿府に移り住む際に洪水から駿府の町を守るため、薩摩藩に命じ長さ4,100mの堤防を築かせ「薩摩土手」と呼ばれている。

 

この看板から30mほどの路地を行くと薩摩土手の一部が残っているのを見ることが出来る。

 

〇薩摩土手

 

写真を撮った所に行く途中に「水神社」があった。

古地図にも見ることが出来るので古くからあったのだろう。

 

〇水神社

 

水神社の近くに小さな祠があってお地蔵さまが祀られている。

古地図に「地蔵」の文字も見られるのでこのことかもしれない。

 

〇首地蔵

 

〇橋のそばから「本通り」と「新通り」を臨む。

 

駿府方面を臨んでみる。正面の弥勒緑地公園の左が本通。右が新通り。
かつて、川越えしてきた旅人はここで駿府の町を臨み、整然と整備された町の向こうに駿府城が建ち、そのはるか彼方に富士がそびえるのをながめた。
家康の威厳を誇示する景色を創設していたと言われている。
今では城もないし高い建物が邪魔になってしまっている。

 

 本通りで「キリシタン殉教碑」を探すとひっそりと道路脇にたたずんでいた。

 

〇[キリシタン殉教碑]

 

そろそろ弥勒を後にして、次回は安倍川を渡ろう。

 

 

「東海道まちあるきweb」の古地図は見どころが多く少しずつしか前へ進めない・・・<次回へ続く>

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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