駿河の国をwebで歩く(6)「七間町」周辺 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。
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呉服町周辺での寄り道で5回もかかってしまった。

古地図の札ノ辻へ戻って東海道を七軒町(七間町)へと進む。

 

〇札の辻にある伊勢丹前から七間町通りを臨む。

(平成の頃の写真なので今は無い建物も見える。)

 

七間町通りはここから500メートル続き、かつて映画館が数軒並んだ所を過ぎると駒形通りに変わる。

古地図では駒形通は無く寺が並んでいた寺町だった。

寺町は静岡大火や静岡空襲で焼け野原となって、多くの寺は沓谷の愛宕霊園周辺へ移転した。
 

「札ノ辻」から「七間町」へと変わる四つ辻で両替町と交差する。

左へ曲がると古地図では両替町4~6丁目、現在は飲食店が立ち並び夜の繁華街として栄えている。

右へ曲がると両替町は3~1丁目となる。1丁目のビルの片隅に看板が建てられている。

 

〇そこには「十返舎一九生家跡」と書かれていた。

内容を一部抜粋

「膝栗毛」で名高い江戸の戯作者、十返舎一九は、駿府町奉行同心重田與八郎鞭助の長男として1765年この地に生まれた。「東海道中膝栗毛」の作者。多芸多才の人で、武芸、香道、書法等にも通じており、絵師としても高い才能を認められている。

 

「東海道まちあるきweb」のメインテーマでもあり、ルーツになる場所だ。

 


十返舎一九生家跡の向かい側の歩道に石柱が立っている。

〇そこには[駿府銀座発祥の地]とある。

説明文を読む。
 慶長17年(1612)駿府の銀座は江戸に移された。今日の東京銀座のルーツは静岡にある。

と書かれている。このことが静岡人の自慢の一つ。

 

古地図には「金座町」は無いが呉服町の先にある上魚屋町のあたりが現在「金座町」となっている。

〇金座町に「金座稲荷」という小さい社があって金座の謂れが書かれている。

金座の謂れの記述内容を抜粋

当神社は後藤藤庄三郎光次が徳川家康公の命を奉じ駿府、上魚町に金座を開設し小判の鋳造を始め、守護神としてまつったのが起源。以来四百年、「金運の神様」として親しまれて来た。尚金座町という町名は、歴史的事実にもとづいた町名としては全国で唯一のもの。

 

金座稲荷の前をさらに進むと先は茶町となる。今でもここから西には茶問屋が多く静岡茶の中心をなしているが、このころから茶町と呼ばれていたのは歴史を感じる。

 

茶町に入る手前の交差点を左に折れて研屋町に「医王山 顕光院」という曹洞宗の寺がある。

家康が呼び寄せたという縁の寺だそうだ。
 

〇顕光院

寺の前の道は現在「土手通り」と呼ばれていて本通と並行して安倍川手前まで続いている。

 

七間町通りに戻って進む。
かつてはオリオン座、有楽座、ピカデリー、ミラノ映画館が多く有ったが今では東宝会館だけが近代的な建物に生まれ変わって営業している。
東海道は、国道362号線をまたいで100mほど行ったこの交差点を右折する。

昭和6年ころまでは、ここから50mほど先に安立寺という寺があって七間町はここで突き当たりだった。

安立寺は古地図にも描かれている。安立寺は現在、市内春日町へ移転している。


《寺町》

家康は駿府の町を造る際、市中に散在した寺の多くをこのあたりに集めた。そうしてできたのが寺町。

万一の際、外敵の侵入を阻止するための防衛線であり兵馬を駐屯させることもできたと言われている。

 

 

「東海道まちあるきweb」の古地図は見どころが多く少しずつしか前へ進めない・・・<次回へ続く>

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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