小・中学生の頃、太平洋戦争関係の書物をむさぼるように読んでいました。そのころは、真珠湾攻撃で戦艦を何隻撃破したとか、ミッドウェー海戦で空母が何隻撃沈されたーというふうに、戦果という数字でしか戦争を見ていませんでした。

 しかし、そこには「数字」ではなく感情を持った人間としての苦悩があり、生き様があったはずです。

 

 特攻隊として出撃する若者の遺書を見たことがあります。魂を揺さぶられました。

 「彼らは戦争の犠牲者に過ぎない。」、「徒に英雄視すべきではない」、「彼らの犠牲がなくても日本は復興した。」などと

特攻隊を否定的にとらえる論調があります。もちろん「特攻隊」という作戦形式は天下の愚策であることは論を待ちません。

 

 しかし戦争という時代に翻弄され、未来のある若者が命を絶たれざるを得ないという無念さ、そしてこれまで大切に育ててきた息子を、喜んで死地に送り出さなければならない親の苦悩・悲しみを慮ると、「無駄死に」などという表現には多分に抵抗を感じます。また、その時代を知りもしない人たちが「過去の愚行を反省し~」などとしたり顔で話す姿にはとても違和感を覚えます。

 

異論もあると思いますが、戦争という激動の時代に命を捨てざるを得なかった人々の尊い犠牲のおかげで、今の日本があるのだと思います。

 

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8月のホタル

 

「今夜は雨が降るみたいですよ。窓はしめておきましょうね。」

点滴を取り換えながら理恵が声をかけた。若い看護婦であった。

「干天に慈雨か。このところの日照りですっかり大地は干上がりましたなあ。まあ、少しあけたままにしておいてください。」

ベッドにあおむけになっている老人が静かに言った。

理恵はこの老人の穏やかな話しぶりが好きだった。

 

「でも夜風はお体に触りますわ。」

「いや、いいんだ。このほうが心がやすまるんですよ。」

老人はわずかに首を曲げ、視線を窓際に投げた。

「ん?照明をおとしてくれませんか。」

老人は細い眼をさらに細めた。なにかを見つけたようだった。

「はあ・・・それはいいですけど。お体にさわりますよ。」

理恵は苦笑しながらスイッチを押した。部屋が暗くなると、外のほうが仄明るくなった。

 

「あっ、ホタルだわ。よくわかりましたね。」

理恵は軽い叫び声を上げた。

窓際まで伸びているケヤキの小枝に一匹のホタルがとまっていた。

 

二人は沈黙し、その明滅に見入った。

すると、照明が落ちて安心したのか、ホタルは小枝から浮きあがるとふわりふわりと病室に入ってきた。

しばらく部屋の中を回っていたが、やがてベッドの手すりに落ち着いた。明滅のテンポが心なしかゆったりとした感じになった。

「まだいたんだわ。もう8月というのに・・・。」

理恵は円筒形の手すりにしがみついているホタルを愛おしげにみつめた。宝石のように幻想的な明滅だった。

「わたしは8月のホタルなんですよ。」

老人はいった。その声は何となく湿っぽくなっていた。

 

老人はげっそりと痩せていた。声とともにせり出したのど仏が上下した。

左手首の静脈に刺した太い点滴針が痛々しかった。

「どういうことですか?」

恵理は小首を傾けた。

「まあ老人のたわごとと思って聞いてください。」

老人はゆっくりと唾を飲み込むと、静かに話を切り出した。

 

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「貴様らっ。」

上官の海江田が声をあげた。怒っているわけではなかったがガラス窓がビリビリと鳴るほどの音響だった。

彼の前に4人の若者が直立していた。

「4機編隊で特攻を予定していたが1機の調子が悪い。よって明日の特攻は3機編隊になる。」

そういうと海江田は4人をじろりと見回した。

「だから貴様らのうち一人は残ることになる。」

若者たちは唖然とした。しかしそれは一瞬のことであった。

「では私以外の人間を残してください。」

一番年かさの永池が顔を紅潮させた。

「私も行きます。今はまさに皇国の危急存亡のときです。ご奉公できるのは今をおいてほかにはありません。」

長身の源田が一歩前にで出て叫んだ。

「お国のために捨てた命です。明日の出撃から外してしまわれるのならここで自決します。」

まだ18歳、あどけなさの残る小田が口角泡をとばしながら声を振り絞った。

「わ、私もです。特攻をはずされるのなら死んだほうがましです。」

この6月に二十歳になったばかりの酒匂も続いた。

 

海江田は若者たちの発言を満足げに聞いていた。

「皇国を慮る貴様たちの思いは分かった。だが、だれかをはずさないといかん。しかし貴様らのうちだれをはずすかは

俺には判断できん。みんな優秀だからな。」

「ではどうするのですか。まさかじゃんけんなんてことはないでしょうね。」

永池が憤慨した。

「そんなことはしない。」

海江田は苦々しい顔をした。そして腕を組んで考え込んだ。

「うん、貴様らは大日本帝国の軍人だ。お前たちで話し合って進退を決めるんだ。命令ではなく自分たちで判断するんだ。」

さすがの鬼の上官も自らの意思で部下の生死を分けることに躊躇したようだ。

 

神風特別攻撃隊、略して特攻隊。爆弾を抱いた戦闘機ごと敵艦に体当たりをするという、

生還を期せない死への片道飛行であった。

それだけに国民は特攻隊員を畏敬し、神のようにあがめた。

 

昭和19年末に始まった特攻隊は始めこそ、空母や巡洋艦を撃沈、大破させる戦果をあげ、

連合軍の心胆を寒からしめた。

しかし程なく連合軍の防空力が強化されると、つぎつぎと撃ち落され、

目立った戦果をあげることはできなくなっていた。

しかし軍部は特攻隊を乾坤一擲の作戦として、次々と有為の若者を死地に追いやっていたのだ。

 

「では明日、貴様たちの結論を聞かせてもらう。解散。全員退出!」

海江田の号令とともに4人は教官室を退出し、それぞれの部屋に散った。

 

「これは天が与えてくれたチャンスかもしれんぞ。」

自室に戻った酒匂は目の前が少し明るくなった気がした。

明日、4人は特攻隊として沖縄近海に蝟集する敵艦隊に突入することになっていた。

「僕は死にたくない。この世の中でやりたいことの100分の1もしていないのに。」

酒匂は簡易ベッドの上にあおむけにひっくり返った。鉄パイプがギシギシと音を立てた。

「しかしなあ・・・僕をはずしてくれなんて口がさけてもいえない。卑怯者とののしられるのがおちだよ。

みんなも助かりたいと思ってるんだろうなあ。永池さんは結婚したばかりだし、源田さんは陸上でオリンピックに出場できるほどの記録をもっていて、今も練習を欠かしていない。小田君は大地主の跡取り息子だ。」

酒匂は仰向けのまま腕を組んで考え込んだ。

 

昭和20年夏、戦況は日を追うごとに悪化していた。

大本営は日々華々しい戦果を喧伝していたが、

都心部を中心に毎日のようにB29の空襲があり、国民は内心では日本の勝利を疑い始めていた。

 

「ああ、死にたくないなあ。機械工学の勉強ももっとしたいし、恋愛もしてみたい。親孝行もしたりないし、なによりこの先、日本がどうなっていくのかこの目でたしかめたいんだ。」

酒匂は狂おしく寝返りを打った。

「敵艦に体当たりするのがお国のためだというけど、もっと別の方法でお国に奉公することもできるはずだ。僕はそうしたいんだ。」

酒匂は髪をかきむしった。

彼は帝国大学の工学部の学生であった。

開戦当初は、学生は兵役を免除されていたが、戦況の悪化とともに兵役を課せられるようになった。

学徒動員である。

4人の若者も学徒として動員され、空軍に配属されると戦闘機の操縦を叩き込まれた。

 

「みんな争って特攻隊に志願していたが、本当はどうなんだろう。本当にお国のために死にたいんだろうか。」

酒匂はつぶやくと、ベッドからふらふらと立ち上がると窓際によった。

「おっ、ホタルだ。もう8月なのになあ。」                                                        

1匹のホタルが黄緑色に明滅しながら、窓際近くをふわふわと舞っていた。

彼のいる基地には清流があり、ホタルの乱舞がみられるのであった。

しかし8月のこの時期、ホタルはほとんど見られない。季節外れのホタルだった。

 

「そろそろ8時だな。よしっ、みんなにはこう言おう。僕は別の奉公をしたいから特攻から外してくれとな。」

しばらくホタルの姿を追っていた酒匂は、意を決すると部屋から出た。

向かうのは食堂であった。4人は8時に集合して話し合うことにしていたのだ。

 

「すいません。みなさんお揃いでしたか。」

すでに3人はいた。何か話をしていたようであったが、彼が入ってくるとぴたりと会話をやめた。

「なにを話していたのですか?」

酒匂はいぶかしげに尋ねた。

「いやなにね。」

永池がゆっくりと首を振った。ほかの2人もしめしあわせたように口をとざした。

しばらくの間、沈黙が支配した。

 

酒匂はつまはじきにされている気がした。

「ふふふ、別に仲間外れにしてるわけじゃないよ。」

酒匂の思いを見透かしたように永池が苦笑した。

「さて、これでみんなそろった。本題に入るとしよう。」

海江田の前での興奮がうそのように永池は落ち着き払っていた。

切れ長目の端正な顔立ちで、仲間からは五月人形と言われていた。

 

「じゃあ、僕から言わしてください。実は・・・。」

酒匂は自分の思いを切り出そうと身を乗り出した。

 

「少し待ってくれよ。ここは俺からだ。」

永池がそれを静かに遮った。

「えっ、どうして?」

酒匂は出鼻をくじかれた。

「まあ、待ってくれ・・・俺は、この間、結婚したことは知ってるな。」

永池は少し照れながら言った。

「ええ、知っていますよ。」

酒匂は仕方なしに答えた。

「うん。で、きのう手紙があって、女房の腹の中に子どもがいることがわかったんだ。ご懐妊だよ。」

「それはそれは。おめでとうございます。」

源田がにこにこしていった。スポーツマンらしく屈託のない笑顔であった。

「そうなんですか。永池さん、おめでとうございます。一日も早く、お子さんにご対面したいでしょう。」

酒匂も嬉しかった。兄のように慕っている永池の幸せは自分の幸せでもあった。

「ありがとう。・・・。」

永池は微笑みをうかべて軽く頭をさげると、それっきり口を閉ざした。

「永池さん。もっと嬉しそうな顔をしてくださいよ。」

酒匂はうかない顔をしている永池の腕をつかんだ。

そして、―永池さん、あなたこそ特攻から外れるべきじゃないんですかーと言おうとした。

 

「じゃあ次は私だ。」

が、それを遮って、今度は、源田が話し始めた。

「2番目に年寄りだからな。」

源田は22歳であった。年寄りというのにはあまりにも若すぎた。

大柄な彼はパイプ椅子を2つくっつけて、その上に胡坐をかいていた。

「私は陸上が3度の飯より好きなんだ。オリンピックを目指していたんだよ。」

源田は物静かな男であった。

「よく知っていますよ。かけっこではだれにもまけないそうですね。」

小田がちょっかいをだした。

「かけっことはよくいったもんだ。」

源田は苦笑した。

「勝負になると何もかも忘れるんだ。異次元の世界にいるように気分が高揚するんだ。

オリンピックは走り屋にとって憧れの場なんだよ。最高のヒノキ舞台だ。」

源田は目を細めて天井を見た。蛍光灯に盛り上がるほど小ばえが蝟集していた。

彼にはそれがオリンピックの大観衆に見えたのかもしれない。

「源田さん。オリンピックに出れたらいいですね。そのために訓練を欠かさなかったんですものね。」

酒匂は少し紅潮した横顔をみながらしみじみと話しかけた。

―ぜひオリンピックに出場して世界にその実力を見せつけてほしい―と心から思った。

「ははは。君はせっかちだなあ。」

源田は白い歯を出して笑った。トップアスリートにありがちな高慢さもなく、誰にでも丁寧にやさしく語り掛けた。

女学生からの人気もひときわ高かった。

 

「源田さん、これでお話しは終わりですね。それでは、みなさん。次は僕の話を聞いてください。」

自分の出番を待ちわびていたかのように小田はパイプ椅子の上に立った。そしてみなを見回した。

ほほにはニキビをつぶした跡が何か所もあった。

「おいおい年功序列なら俺が先だろう。」

酒匂が小田の右腕をつかんだ。

「まあまあ酒匂さん。誰も年功序列なんて言ってないですよ。早く話したもの勝ちですよ。」

18歳はおどけ調子で言った。

 

4人とも年齢も出身地も学校もばらばらであった。

彼らは知り合って半年に過ぎないが、寝食をともにするだけでなく、一緒に厳しい訓練を受け、互いに愚痴を言い、慰めあい、励ましあう、そして、たまの休日には鹿児島の繁華街で羽目を外す、そんな日々を過ごすうちに兄弟以上の仲になっていた。

そして、そろって特攻隊として出撃することが決まると仲間意識はさらに高まっていた。

 

「では発表します。僕は大地主の跡取り息子です。子どもはいません。」

「ははは。そりゃそうだろう。結婚もしてないんだからな。」

源田が面白そうにはやし立てた。

「そう、だから特攻隊に編入された報告を両親にしたとき、『せめて孫の顔がみたかった。』っていわれたのです。」

「だろうなあ。小田は確か岐阜の出身だったね。名士の跡取りだから余計、ご両親は残念だろう。」

永池がぽつりといった。

「それはよくわかりませんが、とんだ親不幸ですね。親孝行ができなかったのが残念です。」

小田は少し寂しそうにいった。

 

「お、小田君、どうだ、せめてもう一度、ご両親に顔を見せては。」

酒匂が口をはさんだ。そうしてもらいたいと本心から思った。

「そうですね。そうできればいいのですが・・・ね。」

小田がそううなずくと口をつぐんだ。

元気な小田が黙り込んだとたん、お通夜のようになってしまった。

いまさらそんなことはできるはずもないことは、誰もがわかりきっていた。

 

酒匂はみなの話を聞いているうちに、特攻から外して欲しいと考えていた自分を恥じた。

そして自分が犠牲になることで、誰かが生き伸びてくれたらそれでいい、という気持ちが沸き上がってきた。

 

「じゃあ、酒匂君、いよいよ君の番だが・・・その前にひとつ提案があるんだ。」

永池は改まった調子で言った。

「提案ですか?」

「そうだ。これは俺たち三人の総意なんだが・・・。」

そういって永池は再び沈黙した。一瞬、重苦しい空気が流れた。

 

「いったいどんな提案なのですか?」

沈黙に耐え切れず酒匂はさきを促した。

「君に明日のメンバーからはずれてもらいたいんだ。」

永池は静かに言った。

「えっ?なんですって。」

酒匂はわが耳を疑った。

源田は窓の方を見ながらコキコキと首を鳴らし始めた。

小田は酒匂を食い入るように見つめていた。

「明日の特攻は俺と源田、それに小田でいくということだよ。」

永池はいった。

「ど、どうしてですか。勝手にそんなことを決めて。」

酒匂は椅子から腰を浮かせた。

「酒匂君、興奮せずに、続きを聞くんだ。」

源田が酒匂の動きを制した。

「源田さん、どうして僕の意見も聞かずに決めるんです。欠席裁判じゃないですか!」

しかし、納得のいかない酒匂はくってかかった。

「酒匂さん。すいません。仲間外れにしたわけじゃないのですよ。あなたをはずすのには理由があるのです。」

小田はニキビ跡をぼりぼりとかきむしりながらいった。ひげもまだ生えそろっていなかった。

「・・・き、君が残ればいいじゃないか。君が一番若いんだ。それこそ年功序列だよ。みんな納得だ。」

酒匂はふてくされた。そして、どしんと椅子に腰を落とした。

 

「まあ聞くんだ。3機しかないから4人は乗れない。1人、はずれなきゃならない。じゃあ、どうすれいいのか3人で相談したんだ。」

「だからそれをみんなできめろって・・・!」

「そして将来の日本にとって一番役に立ちそうな人物が残るべきという結論に達したんだよ。」

かまわず、永池が穏やかに話をつづけた。

窓の外ではコロコロとコオロギがないていた。日中の日差しはまだまだ厳しいが、夜は一転、

これまで感じられなかった涼風が吹き、季節の変わり目が近づいていることを告げていた。

 

「日本の将来に役に立つ?」

「そうだ。まずは俺のことから話そう。」

永池はわかばを胸ポケットから取り出すと、マッチで火をつけた。

そして深く煙を吸い込むと、ほっと吐き出した。

紫煙が酒匂の横を通過し、窓の外に流れていった。

「この4人の中で結婚しているのは俺だけだ。しかも子どもまで授かったんだ。」

「それはさっき聞きましたよ。お子さんの姿をご覧になるべきでしょう?」

酒匂が口を尖らせた。

「それは私情だよ。俺は結婚した。それもお見合いではなく、幼馴染と恋愛結婚をしたんだ。実家の青森には、たくさんの知人、友人、親せきが集まって祝福してくれた。しかも新婚旅行にもいかせてもらった。熱海だよ。短い間だったけど新婚生活も楽しむことができた。幸せを味わったんだ。」

永池はそのときのことを回想するかのように目を細めた。

「やり残したことと言えば子育てくらいだけど、これは私情だ。俺がいなくても妻や両親がしっかりやってくれる。」

「し、しかし。」

「なんでもいい。つまりこの先、生きていても、子育ておやじにはなるけど、日本の発展に貢献できそうもない。」

永池は吐き捨てるようにいうと、アルマイトの灰皿でわかばをもみ消した。

みなが乱暴に扱うので、灰皿は楕円形に歪んでいてカタカタと音をたてた。

「そんなぁ・・・子育ても立派な仕事じゃないですか。」

酒匂がいった。

「そう、仕事かもしれない。でも誰にでもできる仕事だ。」

永池は穏やかにいった。

 

この時代、子どもを大切に育てるという発想はなかった。

むしろ、子どもは勝手に育つものだし、弱い子は淘汰されても仕方がないという考えであった。

「し、しかし。」

酒匂はそれでも納得がいかなかった。

 

「次は私だ。」

源田は淡々と話し始めた。

まるで首を鳴らすのに飽きたので、はなしを始めたというような感じであった。

「私はオリンピックにあこがれていると言ったね。」

「ええ、そう聞きました。だから毎日、訓練を欠かさないのでしょう?」

酒匂は口をとがらせた。。

「ははは、君は少し誤解をしてるね。もう私はオリンピックには出場できないんだ。実は2年前にアキレス腱を断裂したんだ。選手生命はとっくに絶たれている。」

源田はたんたんと話した。

「えっ、そんなことは・・・。」

「聞いてないってかい。言ってどうなるわけでもないからね。」

「・・・。」

酒匂はことばに詰まった。

「酒匂君、私が悲しんでいたと思うかい?」

源田が笑った。白い歯が印象的であった。

「確かに断裂した当初は悔しかったよ。自分の悲運を恨んだ。でもすぐに進むべき道は決まったんだ。」

「そんな話は初めて聞きました。で、どんな道を選んだのですか?」

酒匂は驚いた。

「自分の練習方法を後輩たちに叩き込むことだよ。」

「練習方法を、ですか?」

酒匂は首をひねった。陸上の練習なんてひたすら走ることしか思い浮かばなかった。

「練習というのは、敵性用語でトレーニングというんだけど、西洋の練習方法はすごく合理的なんだ。」

「そうなんですか。どういうふうに合理的なんですか。走りこむだけではだめなんですか。」

「だめなんだよ。私はアメリカ人のコーチの下でトレーニングを受けたことがある。それまでの記録はぱっとしなかったけど、そのコーチについた途端、ぐんぐん記録が伸びたんだ。」

「そんなに変わるものなのですか?」

この時代、何事も根性・我慢などと精神論ばかり喧伝されて、合理的などという思想は皆無に近かった。

 

「私も不思議でしたよ。でも走った距離に比例して記録が伸びるわけではないんだ。フォームや呼吸方法、それに体調や栄養管理などいろいろなメニューを組み合わせるのです。」

「そうなんですか・・・。」

「がむしゃらに走りこむだけでは絶対勝てないんだ。合理的な練習方法が不可欠なんだ。それから私は何人もの後輩にその合理的な練習方法を教え込んだんだ。そんな彼らも引退後は後輩に伝授していくことでしょう。私がなすべきことは終えたんだよ。」

 

「そ、そんなこと・・・。」

酒匂はなんと返してよいのかわからなかった。

「だからもういいんですよ。」

源田は深くうなずいた。

「だから頼みましたよ・・・。」

酒匂は源田の澄んだ目にみつめられて、どぎまぎしてしまった。

源田は再び首をこきこきと鳴らし始めた。

 

「さて、次は僕です。」

小田は普段のおどけた調子に戻っていた。

「この前、実家から手紙が届いたのです。」

「へえ、なんて書いていたんだい。」

「僕には姉がいます。その姉が婿養子をもらうことになったという連絡でした。」

「そうなんだ。」

「そうなんですよ。跡取り息子の僕に黙ってですよ。けしからん人たちです。」

「・・・。」

小田の気持ちを考えると、酒匂には返す言葉がなかった。

「僕はもう跡取り息子ではなくなりました。でもこれで実家は安泰です。やれやれですよ。」

「・・・。」

「これで心置きなく死ぬことができます。実家には感謝しなければいけません。」

小田はあっけらかんと言った。かきむしったニキビ跡から血がにじんでいた。

「・・・。」

酒匂は茫然としてその童顔を見つめた。

 

心中は苦悶が渦巻いてるはずなのに、それをおくびにも出さずに死地に向かう、その姿に酒匂は感極まった。

「小田君。やはり君が残るべきだ。そのかわり僕が敵空母を撃沈してやるからな。」

酒匂は小田の両肩をむんずとつかんだ。

「いやだなあ。酒匂さん。さっきの決定を忘れたんですか。」

小田が静かに言った。

「日本の役に立つかどうかで、決めたのですよ。」

 

「永池さん、煙草をもらいましょうかね。」

小田が源田の胸ポケットに手を伸ばした。

「子どもはだめだよ。」

「ちぇっ、この期に及んで説教ですか。」

「まあ、少しだけならいいんじゃないですか。どうせ後悔するんだけどね。」

源田が面白そうにいった。

「・・・。」

酒匂は3人のやり取りがまぶしく見えた。

 

「なあ、酒匂よ。」

永池が切り出した。

「日本はこれといった資源もない。耕作に適する土地も少ない。それに天災も多い。飢饉になるとたくさんの人々が餓死するし、地震・津波で命を落とした人は数知れない。政府と軍部は資源や土地を奪い取るために戦争を始めたんだ。表向きは欧米の植民地支配からアジアを解放するなんていってるけどね。」

「・・・。」

「でも、それはもう破綻している。こんなやり方ではだめだ。日本が自立していくためには産業を興していくしかないんだ。領土を拡大しても世界中から恨みを買うだけだ。」

永池は国民を巻き込んで破綻に突き進む政府と軍首脳が腹立たしくてならなかった。

「私もそう思います。しかし、そんなことを口にしようものなら、特高にひっぱられて拷問だ。だから君だけでも我々の思いを知っておいてほしい。」

源田が激しく同調した。

「君は工学部出身だ。そして技術者にありがちな高慢なところもない。ひとりよがりでなく、他人の意見もよく聞く。」

「そ、そんなことはないですよ。」

酒匂は困惑した。

「なにより君はものづくりの才能を持っている。私は知ってる。暇があれば武器倉庫の廃材でいろんなものを作っている。小型モーターや懐中電灯なんて、よくこんなものがつくれるなあって感心しているんです。」

酒匂は機械いじりが好きだった。大学で学んだ知識をフル活用して、油まみれになって、ものをつくるのが大好きだった。

「源田君のいうとおりだ。これからの日本は、君のような人材が必要なんだ。まもなくこの戦争に負ける。敗戦国には悲惨な運命が待っている。でも日本人がまいた種は日本人で解決しないと、だれも手伝ってはくれないんだ。」

「そ、そんなことは。でも僕はみんなといっしょに・・・。」

「感傷的になっている場合ではない。俺たちはお前を救いたいのではない。お前の才能が日本に必要だからなんだよ。」

「し、しかし・・・。」

「しかしもなにもない。しっかりするんだ。それに死ぬのは一瞬だけど生きるのはつらいぞ。いろんな苦難がある。それに打ち勝っていかなければならない。わかったか。」

煮えきらない酒匂にしびれを切らしたのか、永池の声は次第に大きくなった。

 

「酒匂さん、頼みますよ。あなたに日本の未来がかかってるんです。いや僕の実家の幸せもかかってるんですよ。」

小田は笑っていたが、目からは涙がこぼれそうだった。

それを見て、酒匂の目頭も熱くなった。

 

コオロギの鳴き声がやんでいた。彼らの会話をかたずをのんで聞いているようだった。

 

「わ、わかりました。みなさんの決定に従います。」

酒匂はその場に崩れ落ちた。

「こんな僕に期待をしてくれてありがとうございます。」

そしておでこを床につけた。涙がとめどなく流れ、顔を上げることができなかった。

 

「もう一度いうがこの戦争は間もなく終わる。軍の幹部連中は情勢が耳に入ってくるので、そわそわと落ち着きがなくなってきている。みんな敗戦後の保身に必死なんだ。そんな奴らはなんの役にも立たない。酒匂、なんとしても生き残るんだ。次に特攻を命じられても逃げ出して指宿の山奥にでも潜伏するんだ。生き残って、日本の復興の礎になるんだ。わかるか、わかったな。」

永池が激しく叱責した。彼の目もまた真っ赤になっていた。

 

「いずれは日本でオリンピックが開催されることになるかもしれない。後輩たちが活躍する場をつくって欲しい。そうだ、奨学金制度を作って後輩をたちを支援して欲しい。」

源田はそう言って、ポンポンと酒匂の肩をたたいた。その目からぼろぼろと涙が流れ落ちていた。

「酒匂、俺の頼みだ。俺の墓前に復興の様子を報告するんだ。年1回でいいから俺の墓、といっても君の地元の大阪から青森は少し遠いかもしれないが耐えてくれ。」

永池も感極まっていた。

「酒匂さん、日本が立ち直らない限り、わが小田家の繁栄もないですから。頼みますよ。」

小田が大げさに手を合わせた。

「わ、忘れるもんかい。」

酒匂は小田に抱き着いた。

 

「あっ、電燈が!」

そのとき電気が消えた。

自家発電なので通電が一定せず、停電は日常茶飯事であった。

「ホタルがいます。」

小田が窓際に駆け寄った。ホタルの光が暗闇に浮かび上がっていた。

「めずらしいなあ。この時期にホタルなんて・・・。」

みんなも窓に近寄った。

消え入るような灯を明滅しながら、一匹のホタルが所在なげに舞っていた。

「ホタルは夏の虫というイメージがあるけど、5月末に最盛期を迎えるんだ。そして7月にはあらかた姿を消してしまう。酒匂、さしずめ君は8月のホタルだよ。」

永池がポツリといった。

「それはどういうことですか?」

酒匂は首をひねった。

「われわれ3人は5月末の最盛期のホタルだ。華々しく舞うが、すぐに力尽きてしまう。」

永池は静かに話し続けた。コオロギが鳴き始め、それにに交じって鈴虫も鳴きだした。

「これから始まる新しい時代に向け、しっかりと気力・体力を温存するんだ。このホタルのようにだ。そして、復興という使命を果たすのだ。」

 

「でも、酒匂さん、なんだか泣いてばかりで頼りないですね。」

小田が苦笑した。

「こうしましょうよ。僕たちは酒匂さんに憑りついて監視することに。ねえ、永池さん、源田さん。」

「わはは。そりゃあいい。酒匂、うかうかサボることもできないな。」

「わ、わかっていますよ。サボったりしないですよ。」

酒匂はくしゃくしゃの泣き顔で言った。

その様子をみてみんな腹を抱えて笑った。

それに驚いたのか、ホタルは大きく弧を描きながら漆黒の中に消え去った。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「それでお三方はどうなったのですか?」

恵理が尋ねた。

「翌日、無事に、というのも変だが、鹿屋基地を飛び立ちました。」

老人は静かにいった。

「そして南海に散ってしまった。」

老人は、『ほっ』と、せつなげに息をはきだした。

「そうでしたの・・・。」

理恵はそれ以上の言葉をみいだせなかった。

「戦争が終ったのは、そのすぐあとでした。私には出撃命令はなかった。」

 

「そうですの。悲しいお話ですね。」

ほんの数十年の昔、同年代の若者が命をもてあそばれ、そして散らしていった。その生き証人の話を聞き、理恵は、こみ上げるものをおさえかねた。

 

「戦争って残酷なものですね。」

「そうだ残酷なものです。」

「酒匂さんは、生き残ることができたのですね。」

「そうだ。あの3人に生かされたのです。」

老人はふかく顎をひいた。

 

「終戦後、私は小さな工場を設立するとがむしゃらに働きました。」

「そうでしたの。」

「酒も飲まず、タバコも吸わず、そして結婚もせず、ただひたすらに働きました。」

老人は乾いた唇をなめた。

「そのかいあって、町工場の製品は飛ぶように売れた。いや私の製品だけでない、日本の製品が世界を席巻したのです。」

老人はたんたんと話し続けた。まるで他人事のような話しぶりであった。

 

「昭和30年、40年代、そのころの経済成長はものすごかったそうですね。」

「日本が一番輝いていた時代かもしれません。生き残りの男たちは働くことがせめてもの贖罪だと思っていました。多くの戦友が死んだのに自分だけがのうのうと生きている。そのうしろめたさと申し訳なさが、わたしたちを突き動かしたのです。」

老人は肩を波打たせながら息を整えた。喘息の気もあり、のどがヒューヒューと鳴っていた。

「すいません。興味深いお話なので、就寝時間を超えてしまいましたわ。」

理恵はぺこりと頭をさげた。

 

ホタルはベッドの手摺で宝石のように淡い光芒を放っていた。

 

「あかりをつけましょう。喘息は暗いとひどくなりますから。ホタルさん、明るくするけどごめんね。」

理恵はスイッチを入れた。

手摺の宝石がただの黒い塊になった。

 

「私には労働が苦になりませんでした。そしてもう一つ大きな楽しみがありました。3人の墓前への報告です。永池さんは年一回でよいとおっしゃったが毎月、青森まで行きました。」

「月一回ですか!」

「永池さんのお子さまは立派に成長されて、今は国際線のパイロットです。戦闘機ではなく、旅客機で世界中を飛び回っています。源田さんの夢もかないました。東京オリンピックで源田さんの遺志を受け継いだ選手たちが大活躍しました。小田君のところは、たくさんのお孫さんに恵まれ、ご両親は今でも健在です。」

老人はうれしそうに目を細めた。

「そうですか。それにしてもみなさんの願いがかなってよかったですね。」

理恵は本心からうれしく思った。心の中に灯がついたような気持になった。

 

彼女はこの終末病棟で老人のケアを担当していた。

そして老人の朴訥とした話しぶりと憂いを帯びた瞳にいつも惹かれていた。

「理恵さん、あなたは本当によくしてくれました。感謝の言葉もありません。」

老人が唐突に言った。

「ど、どうしたんですか。やめてくださいね。なんだかお別れのあいさつみたいじゃないですか。」

理恵は戸惑った。

「・・・理恵さん。あなたも苦労をしましたね。」

老人はぽつりと言った。

「そ、それほどでもありませんわ。」

彼女は幼いころに両親を亡くし施設に引き取られた。そこで苦学しながら看護婦の資格をとったのだ。

「そこが君の偉いところだ。苦労を自慢話にしない。いや、苦労を苦労と感じていないのかもしれません。」

「なんですかそれは。私が鈍感ということですか?」

理恵は少し怒った顔をした。

「いやいやそうではありません。どうですか、私の会社には優秀な若者がたくさんいます。わが社をしょって立つ者たちです。

一度お会いしませんか?」

「何を言ってるんですか。そんなお話は結構です。」

理恵は驚いて手を振った。

 

「そうですか。それでは仕方がありません。」

老人はあっさり提案を撤回した。

「あたりまえですわ。いきなりみずしらずの男性とあってくれなんて・・・。」

理恵の顔はうっすらと紅潮していた。

「ははは。これは失敬しました。わが社の社員は仕事はできるがどうも女性には奥手で・・・素晴らしい女性をみつけるとついつい結婚相手にと思いまして。自分は未婚のくせにねえ。」

老人は穏やかに笑った。

「本当にいやですわ。」

理恵はほほをふくらました。

 

「さて、少し疲れましたな。」

老人はつぶやくように言った。

「あっ、すいません。」

理恵ははっとした。彼女は無口であったが、老人の前ではいささか饒舌になるのであった。

老人に父親を見ていたのかもしれなかった。

「それでは電気を消しますね。それと窓は開けておきますわ。」

「そうしておいてください。ホタルが困りますからね。」

明かりが落ちると病室に暗闇がひろがった。そして宝石が蘇った。

「・・・なにかあったら手元のボタンを押してください。すぐに駆けつけますからね。じゃあおやすみなさい。」

理恵はしばらく宝石をみつめていたが、やがて部屋を出た。

 

 

 

「さて、そろそろ潮時か。さすがに疲れましたよ。」

しばらくして、老人はつぶやいた。いつのまにか虫の声も絶え、部屋には静寂が訪れていた。

                                                                                            

「永池さん。8月のホタルは大変な役回りでしたよ。復興というノルマはあまりにも大きかったのです。挙句に、小田君、君の発案で私がサボらないか監視するなんて・・・。それに源田さん、戦後の日本は大混乱で、あなたの後輩を探すのに随分苦労しましたよ。おかげさまで仕事の時間をずいぶん割かれましたよ。」

老人は3人に苦情をいった。もちろん本心から怒っているわけではなかった。

 

「そろそろいいでしょう。早く会いたい。会いたくて仕方がありません。みなさんはずるいですよ。いつも会ってるんだから。」

老人は駄々をこねた。

「それに、あなた方は若いままです。引き換え、私はよぼよぼのじいさんです。みんなと相撲もできないし、酒も飲めない。」

老人は悔しそうだった。

「でも、会えるだけいいのです。あっ、まさか私のことを忘れてないでしょうね。」

そして急に不安になった。

 

と、そのとき急に部屋が明るくなった。

宝石の光が急に大きくなったのだ。

「あっ。」

老人は軽く叫んだ。

「み、みんな・・・永池さん、源田さん、小田君じゃないですか。なんで笑ってるのですか。僕の顔に何かついてるんですか。」

光の中にはニコニコと笑っている三人がいた。そしてゆっくりと手招きをしていた。

「もういいんのですね。永池さん、源田さん、小田君、もうそちらに行ってもいいのですね?」

その言葉に3人は大きくうなずいた。

「あ、ありがとうございます。」

老人の顔はくしゃくしゃだった。

 

 

 

ホタルはもとの明滅に戻り、ふわりととびたった。

しばらく老人の横たわるベットの上を舞っていたが、やがて開け放たれた窓から飛び出した。

そしてどこにそんな余力があったのか、ぐんぐんと空に向かって昇っていった。

老人の魂をのせて天国に向かうかのようであった。

 

老人の瞳は静かにそして永遠にとじられた。

 

 

葬儀はひっそりと執り行われた。老人の遺志であった。

 

理恵は分骨をしてもらうと病院を辞した。噂では生まれ故郷の鹿屋に戻ったということだった。

 

 

日本が奇跡的な戦後復興を成し遂げたのは、老人のような、いわば死に遅れた人々のおかげである。

彼らは、生きながらえた命を復興にささげた。

巨額の報酬を得ることもなく、浮利を追うこともなかった。自らの銅像をたてることもなかった。

ひたすら油まみれになって働き、復興という大仕事を終えると、潔く一線を退いた。

 

そして高度成長期の終焉とともにそんな8月のホタルたちはいなくなった。