テレビのバラエティー番組や漫才などを見ていると、時々「真面目か!」というツッコミを耳にする。

 

“真面目”という言葉は普段、肯定的な意味として使われる事が多い言葉だ。

 

それが、この場合は違和感を指摘する否定的な意味として使われている。

 

何故そうなるかと言うと、バラエティー番組は基本的にお笑い芸人が多数派を占めるからだろう。

 

ふざけて冗談を言う事が仕事の人達にとって、真面目で真剣な事を言う人間は異端の存在なのである。

 

逆に、真面目である事が求められる様な人達…例えば、政治家や学校の先生にとっては、ふざけて冗談を言ってる人間こそが異端の存在となるのだろう。

 

彼らが「ふざけるな!」というツッコミをするのか分からないが、「真面目か!」というツッコミを使うところは想像がつかない。

 

 

 

さて、私の知ってる、とあるアイドルグループでは、「あざとい!」という言葉がツッコミとして使われるという。

 

これまでの話を例にとって考えてみると、そのグループの多数派を占める人達は、あざとく“ない”人間という事になる。

 

彼女達は、よほど実直で、素朴で、嘘をついた事などない人間なのだろうか?

 

 

そして、“あざとい”と言われるアイドルは、果たして異端の存在なのだろうか?

 

 

 

 

 

・夢梨のメッセージ

 

4月23日、【SUPER☆GiRLS 超絶☆定期公演 vol.10〜あざとい女の子は嫌いですか?〜】が開催された。

 

 

 

 

スパガの定期公演はこれまで各メンバーがプロデューサーとなり、個性的な公演を作ってきたが、今回の公演はこれまでの公演とは少し毛色が違う印象を受ける。

 

過去の公演では、まず季節的なテーマや特定のシチュエーションという軸があり、その上に自分の個性を重ねていく…というアプローチで公演が作られてきた。

 

それに比べると、今回の夢梨の公演は“あざとい”という、非常にパーソナルな部分から作り始めているのが特徴的だ。

 

 

 

 

この「あざとい三ヶ条」で、自らのアティチュードを表明している事からも、彼女の姿勢を窺い知る事が出来る。

 

それだけ、この公演は夢梨にとって個人的なものであり、どうしても言いたい事、言わなくてはいけない事があったのだろう。

 

では、夢梨は一体何を言いたかったのか?

 

今回の公演の内容を振り返りながら考えてみよう。

 

 

 

 

ピンク色の承認

 

まず、今回の公演の見所の1つになったのが、夢梨ソロによる『桃色片想い』のカバーである。

 

公演前のツイートで、ピンク色のペンライトを持って来る様に指示している事や、

 

 

 

 

その後の演出などを見ても、今回の公演がピンク色を意識したものである事は明らかだ。

 

思えば、昨年の9月にピンク色に変わってから、これまで彼女がピンク色である事を声高に主張するシーンは少なかった様に思う。

 

それでいて、ピンク色になった当初の批判については、最近のブログでも触れていたりもして、彼女の中では未だにモヤモヤしたものが残っていたのではないだろうか?

 

だからこそ、この機会に改めて、「ピンク色は自分のものである」と宣言し、ファンの承認を得る必要があったのだろう。

 

 

ピンク色のサイリウムで

いっぱいだったあの景色は

 

一生忘れません✨

 

 

ありがとうございました!

 

 

ちなみに、今回オープニングアクトとして出演した“サクラノユメ”と、

 

 

 

 

カバーした『桃色片想い』の両方に、「サクラ」「桃色」というピンク色が入っているのも、夢梨の計算なのだろうか…。

 

 

 

あざといへの理解

 

そして、今回の公演のもう1つの見所となったのが、全メンバーがピンク色の衣装を着たところだ。

 

 

 

 

これには一体どんな意味があったのだろう?

 

少し意地悪な見方をすれば、「自分の事を揶揄したメンバーに対する、ささやかな仕返し…」という見方も出来るかもしれない。

 

だが、個人的には、「他のメンバーにも“あざとい”を体験してもらう」という狙いがあったのではないかと思う。

 

最もアイドルらしくて、あざとさのあるピンク色を着る事で、「あざといの良さ」だったり「あざといと言われる気持ち」を知ってもらおう、理解してもらおうと。

 

そして、何の恥ずかしげもなく、あざとい行為が出来た若い頃の、アイドルとしての初心を思い出して欲しかったのではないだろうか。

 

 

 

あざといの肯定

 

今回の公演で印象的だったのは、公演後に各メンバーがSNSにピンク色の衣装の写真を更新していた事である。

 

 

 

 

 

 

「#あざと〇〇」で投稿するメンバーもいたりして、皆があざといキャラを楽しんでいる様に見受けられた。

 

それは写真を見たファンも同じはず…少なくとも、これを見て嫌な気持ちになったファンはいないだろう。

 

むしろ、「たまにはピンク色であざといのも良いね!」という感じで、あざとい良さを再発見した人の方が、多かったのではないだろうか。

 

 

メンバーやファンも含めて、“あざとい”を肯定するという事。

 

それこそが今回の公演を通して、夢梨がやりたかった事であり、言いたかった事なのだと、私は思う。

 

 

 

 

 

・「あざとゆめり」とは何だったのか?

 

言わずもがな、夢梨の“あざとい”は、彼女のプロ意識とサービス精神と向上心の表れである。

 

それを揶揄するという事は、自分にはプロ意識もサービス精神も向上心もないと言ってるに等しい。

 

つまり、あざといイジりには少なからず、やっかみや嘲笑のニュアンスが含まれているという事だ。

 

そういった冷笑的な空気がグループを支配したら、どうなるか?

 

バカにされる事を恐れ、萎縮してしまい、誰も自分の個性を出そうだとか、新しいチャンレンジをしようとは思わなくなるだろう。

 

空気を読んで、良い子ちゃんに徹する様になってしまうに違いない。

 

ギラレボの歌詞に、「空気ばっかり読み合ってた 無難な着地」という一節があるが、これはスパガが度々陥る、悪しき傾向である。

 

(スパガから個性的なメンバーが出てこなかったり、元3期生の2人の心が壊れた原因も、この辺にあるのではないかと、個人的には思うのだが…。)

 

 

 

では、そんな冷笑的な空気に負けない為には、どうしたら良いのだろうか?

 

その答えは、徹底的に空気を読まない事、断固として自分を曲げない事である。

 

だからこそ、夢梨はレッテルの貼られた、あざといキャラを敢えて引き受けたのだろう。

 

逃げる事も、避ける事も出来たはずなのに、彼女はそのキャラを背負った上で、人々の認識を改める道を選んだのである。

 

自分を変えるのはなく、他者を変える事を選んだのだ。

 

 

 

単純にアイドルとして、与えられたキャラクターを演じるだけなら、「あざとい三ヶ条」の様な言い訳めいた説明をする必要はないだろう。

 

だが、わざわざ書道までして、夢梨はあの文章を書き上げている。

 

冷笑的なニュアンスの込められた、あざといキャラを演じる事は、どうしても出来なかったのだろう。

 

だから、「あざとい三ヶ条」を作ってでも、あざといという言葉のイメージを更新する必要があったのではないか。

 

人々に理解を求める、その姿の裏には、彼女の仄かな怒りと悲しみがある様な気がしてならない。

 

 

 

こういった話は、何もアイドルに限った話ではないはずだ。

 

人とは違う特性を持ったが故に、他人にレッテルを貼られてしまったり。

逆に、人とは違う特性を持った人を見つけて、自分がレッテルを貼ってしまったり。

 

そういった光景は私達の日常にも存在する。

 

例えば、アイドルオタクという事で、肩身の狭い思いをした事はないだろうか?

逆に、自分が理解出来ない趣味の人に、偏見を持って接してしまった事はないだろうか?

 

 

そういった意味で考えると、夢梨が自らの個性を臆する事なく堂々と表現している姿には、とても勇気付けられるものがあると言えるだろう。

 

そして、他者に対して簡単にレッテルを貼ってしまう、私達の心のあり方こそが最も更新されて然るべきなのではないだろうか。

 

 

 

今回、私が夢梨から感じたのは、自分を貫く勇気であり、他者の変化を信じる寛大さであり、そして何より、自らを慈しむ自愛の精神である。

 

時に、それは暴走し、ナルシスティックな印象を与えてしまう事があるかもしれない。

 

しかし、どんなに冷笑されても、決して自己否定に陥らず、彼女を支え続けたのもまた自愛の精神なのである。

 

それこそが、あざといの正体であり、夢梨の本質であり、彼女の強さなのだと、私は思う。

 

 

 

果たして、夢梨は異端の存在なのだろうか?

 

その答えは、私には分からない。

 

だが、仮にまた夢梨が異端の存在として扱われる事があったとしても、彼女はそれを上回る自己肯定力で乗り越えてくれる事だろう。

 

それでこそ、あざとゆめりなのである。