(「白楽雲家の人々 」からのつづき)


 父が予科練(特攻隊の訓練所)に入隊を希望し、祖父母に内緒で願書を提出したのですが、添付写真のサイズが合わず、突き返されたものを祖父に見られ、夜通し説教をされた時に、「楽雲気法」を渡され、華僑夫婦への感謝を忘れず、犬死などするなと言われたのだそうです。


 予科練を諦めた父ではありますが、国鉄で働き、ひたすら召集がかかる事を心待ちにしていたと言っていました。「親の心子知らず」とは、正にこの事でしょう。敗戦を迎えた父は腑抜けとなってしまい、国鉄を辞め家を出て、神戸・札幌・大曲(秋田)を転々とし、住み込みで働き、給料の大半を家に仕送りしていたそうです。


 6年後に自宅に戻り、働きながら祖父の手伝いに専念したと言っておりました。華僑夫婦との出会いが無ければ父は成人できなかったかも知れず、どうせ拾った命であるので家族の為に死のうと思うも、意を遂げられず複雑な胸の内だったのでしょう。


 こうして三男を差置いて父が楽雲気法」を受け継いだのですが、当家に伝わった「楽雲気法」はその後どうなったかと言うと、祖父母と父と伴に当家の墓の中です。


 1959年5月、父は母との結婚を機に名古屋の北東に位置する瀬戸市に居を構えました。その年の9月26日、潮岬に上陸した台風15号(伊勢湾台風)は東海地方に甚大な被害をもたらしたのですが、新築の家は二階部分が飛ばされ、憐れ「楽運気法」は雨と、雨で溶けた土壁により、水と泥に塗れてしまいました。


 水で洗い天火干しをしたのですが、最早文字の判別すら出来なかったそうです。父はそれを祖父が眠る墓に納めたのです。多分既に亡くなっているだろう華僑夫婦の弔いのつもりもあったのだと思います。よって、私は「楽運気法」の原本を見た事がありません。父が書き残したものは隅から隅まで覚えていますが、それも私が父の御骨と伴に当家の墓に納めました。


 「楽雲気法」が父を助け、私も生まれる事が出来たと言えます。それが良かったのか、悪かったのか複雑な心境です。「楽雲気法」は「古代風水」として生まれ変わったのです。多くの方に理解されのであれば良かったと言えますが、そうでなければ、何の意味も無い事と言えるでしょう。その場合、「古代風水」と伴にひっそりと当家の墓で眠る事といたします。


(つづく)