(「古代風水研究会とは 」からのつづき) 


 「楽雲気法」は正確には「樂雲氣法」と書きます(旧字体)。どうでも良い事ですね。


 私の祖父(初代白楽雲)は5男2女の7人の子供を儲けたのですが、長男と次男は幼少期に亡くしました。三男も生まれつき身体が弱く、学業にも支障があったと言います。私の父(二代白楽雲)は四男として、1929年1月1日(嘘の様ですが本当です)、この世に生を受けました。三男は1月2日、五男は1月15日ですので、毎回同じ時期に仕込ん・・・、いやいやこれ以上は爺様と婆様を冒涜する事になるので止めときます。父もやはり身体が弱く、医者に「小学校まで生きられない」と言われていたのだそうです。


 祖父の家の隣に、こじんまりとした洋館があり、貿易商を営む初老の華僑夫婦が暮らしていました。挨拶する程度で深い付き合いは無かった様です。父が一歳(1930年)の頃、その洋館に憲兵が押し入り家探しの末、御主人が連行されたそうです。三日後、方々に手をまわしても返してもらえず、途方に暮れた奥方に助けを求められた祖父は、陸軍将校で当時佐官クラスであった(終戦時は大将)友人に掛け合い、釈放されたのだそうです。顔は腫れ上がり、一か月近く寝込んでしまったと言います。


 祖父によると、当時三流国と蔑んでいた中国人(含台湾人)の羽振りの良さを妬んだ者の通報で連行したものの、証拠が出ず困っていたところに陸軍からの要請があり、釈放が早まっただけとの事なのですが、その夫婦は祖父に甚く感謝し、お礼に米と酒、そして金を持参して来たのだそうです。1日分の米と酒一升のみ受け取り、他は全て返したと言います(本当かぁ?)。


 祖父と御主人は仲良くなり身の上話をする内に、子供の話となり、夫婦には二人の息子がいるが、二人とも成人し(一人はアメリカ、一人は神戸)、二人だけでは寂しいので、「貴方の四男を暫く預からせて欲しい」「風水で助けられるかも知れない」と言われ、藁にも縋る思いで預ける事にしたそうです。こうして父は夫婦に預けられたのですが、半年もしない内にすっかり元気になり、医者も驚いていたと言います。


 父が三歳になった頃、世界恐慌の真っただ中で、日に日に戦争の足音が聞こえ始め、夫婦はアメリカへ移住する事を決め、取りあえず神戸へ引越す事になりました。父を養子にとの話を祖父が断ると、父をわが子の様に思っている証に「明巖」と言う名前を送られたそうです。因みに、祖父の戒名には「楽雲」、父の戒名には「明巖」が刻まれています。更に、「樂雲氣法」と書かれた便箋20枚程の手書きの冊子を祖父は受け取る事になったのです。


 父はこの時の事を覚えており、この夫婦の事を本当の親と思っていたらしく、祖父母に返される時には悲しかったと言っておりました。「楽雲気法」を施せば、三男も元気になり子孫繁栄となる」と言われたそうで、伯父も元気に天寿を全うし、五男も元気に育ち今も健在です。


 一月後、華僑夫婦から神戸に無事に着いたと言う便りがあり、更に三月後には、アメリカに旅立つ事を知らせる便りがあり、何時か再会を果たそうと言う内容だった様ですが、それ以降音信不通と相成りました。1945年5月の名古屋空襲(名古屋城炎上)で焼け出され、郊外に引越した為に、宛先知れずになってしまったのかも知れません。


(つづく)