ガダルカナル島は、日本から約6000キロ離れた南太平洋に浮かぶ。ソロモン諸島最大の島で、大きさは千葉県とほぼ同じ。緑深いジャングルと白い砂浜が広がる、まるで楽園のような場所だ。
しかし、1942年から43年にかけて、ここは「餓島(ガトウ)」と呼ばれた。飢えの島。
日米の激しい攻防戦で、約3万人の日本軍将兵が上陸し、2万人以上が命を落とした。その多くは銃弾ではなく、飢えと病だった。
2017年、毎日新聞に
このガダルカナル島に関する記事が掲載される。
広瀬登記者によるもので
『ガダルカナル島の戦いの日々を伝える日本軍将校の報告書と短歌が、松山市内の男性宅で見つかった』という内容だ。
「誰(た)がつけし餓島の名こそふさはしや散り逝(ユ)く将兵(ヘイ)の数に驚く」「餓死すとも守地は離れじ最後まで日の本武士の意気を示さん」
上官への報告書に『短歌』?
しかも、あの状況の中で
戦死者の数を嘆いたり、惨状を伝えている?
この二人はいったいどんな関係で
そもそも、そんなことが
激戦のガダルカナルで許されたのか?
最初に記事を目に止めた
文化放送の関根プロデューサーとともに
毎日新聞社を訪れて広瀬記者にお会いし、
短歌のコピーを拝見した上で
その謎に迫る取材を開始した。
その短歌を書いたのは、陸軍の馬場喜八大佐。
1942年12月8日、開戦からちょうど1年後にガダルカナルに到着し、道路整備を任務とする第4工兵隊の一員として約2ヶ月を過ごした。島を離れたのは、撤退作戦の最終日、1943年2月7日の夜だった。
馬場大佐の短歌は、上官の西原八三郎少将に宛てた報告書に添えられていた。
報告書は冷静に状況を記しているが、別紙の薄い半紙4枚には、約40首の短歌や俳句、漢詩が丁寧な筆致で並んでいた。
私はその発見者である久保慎一さんにお会いするために
アメリカ人で詩人のアーサービナードさんとともに
愛媛県松山市に向かった。
久保さんの母親が亡くなった後、
遺品整理で封筒が見つかったという。
日付は昭和18年(1943年)1月5日。
送り主は馬場大佐、
受け取りは西原少将経由で
久保さんの大おばに託されたものらしい。
久保さんは薄い紙を手に取り、
紙の音をさせながら
実物を机に広げた。
「これはどういう状況で出てきたんですか?」
と私が聞くと、彼は少し間を置いて答えた。
「母親の遺品を整理していたら、一番上に置いてあったんです。変な報告書だなと思って、捨てずに残したんです。最後の行に『ガ島ニ(オ?)ケル感想ノ別紙ニテ御想像イタシ』とあって……」
そして、短歌の一首を読み上げた。
「朝もやを 破りて飛ぶや 大編隊 敵か味方か 心の騒ぐ」
情景が浮かぶ。飢えに苦しむ兵士たちの上に、敵味方の飛行機が飛び交う空。
短歌は検閲を恐れず、兵士たちの本音を伝える形だった。久保さんは言った。
「短歌にすることで、残るかどうかわからないけど、伝わる形にしているんですね。76年経って、僕らが読めちゃうんですよ」
西原八三郎少将は、馬場大佐の短歌を受け取った上官でありながら、その人物像はほとんど記録に残っていなかった。
西原少将が眠るお墓を都内の墓地にみつけた。
大きな松の木に守られるように「西原家」と刻まれた墓石。
墓前で手を合わせながら、私は強く思った。ご遺族にぜひお会いしたい。
霊園事務所に事情を説明し、遺族への連絡を依頼する手紙を託した。しかし、数週間待っても返事は来なかった。戦後70年以上が経ち、プライバシーを守る意識が強まるなかでは当然のことだった。
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ガダルカナル戦は、太平洋戦争の転換点だった。
1942年8月7日、アメリカ軍が奇襲上陸。
日本軍は飛行場建設中の設営隊を中心に約2800人しかおらず、大混乱に陥った。
静岡出身の設営隊員、岡谷さんと増田さんは当時19歳と18歳。ジャングルに逃げ込み、1ヶ月以上さまよった。
彼らの証言は生々しい。
「空襲だって。椰子の木でじっとしてたら、木が半分折れちゃって……」
「死にもの狂いだった。敵さんが上陸してきて、ダダダダって。怖くて逃げたよ」
東京の大本営は当初、偵察上陸程度と軽く見ていた。
陸軍の慢心が、情報戦の敗北を招いた。
アメリカ軍は現地住民から情報を得ており、
飛行場を占領した後も、日本軍をジャングルに追い込み、マイクロフォンで動きを監視した。
4度の奪還作戦はすべて失敗に終わった。
馬場大佐が島にいた頃、
日本軍はすでに苦戦を強いられていた。
食料は底をつき、
兵士たちは栄養失調とマラリアでやせ細っていった。
短歌はその惨状を詠んでいる。
「たえなく 砲の音 いとはげし 眠っては起き 眠っては起き」
「日に月に やせ細りつつ 散ってく 友の行く 聞くぞいたまし」
これらは辞世の句に近い。
幼年学校の作文読本にも、
詩歌は戦訓報告や辞世の句として
位置づけられていたという。
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ここからが、私にとって最も長い道のりだった。
短歌を受け取った西原少将、送った馬場大佐の消息は、以前分からない。
ならば、故郷で探そう。
西原少将は終戦の2年前に盲腸で帰国し、晩年を愛媛県松山市で過ごしたという。
私は愛媛県松山市内で
地元の寺院や郷土資料館、県立図書館を何度も回ったが、「西原八三郎」という名前はどこにも出てこないと言われるばかりだった。
そんなある日、愛媛県内の有志が編纂した一冊の写真集に辿り着いた。『愛媛の慰霊碑 ―戦没者に捧ぐ―』。県内に267基もの慰霊碑や忠霊塔が建立されていることを記した資料集だった。
ページをめくると、松山市西垣生町・三嶋大明神社の忠霊塔の項目に、西原八三郎の名前が明記されていた。
「揮毫:西原八三郎 昭和32年5月建立」
これは少将自身が筆を執った石碑だった。
きっと子孫がこの近くにいるはずだ。
私はすぐにその神社へ向かった。
静かな住宅街の一角にある境内。
入口近くの忠霊塔の手前に石碑が並ぶ場所で、
私は大内さんという女性と出会った。
「こんにちは~。突然で驚きましたね。主人の母が八三郎の娘になりますので、今同居してるんですけど、私が嫁になります」
大内さんは穏やかに微笑みながら、境内を案内してくれた。そして、その日の午後、私はついに西原少将の直系の娘・幸子さん(当時92歳)に巡り会うことができた。
幸子さんは、はっきりとした口調で語り始めた。
「東京・杉並区阿佐ヶ谷に家がありまして、そこから昭和16年12月8日に戦争が始まりましたでしょ……」
父・西原少将は戦地から娘たちに手紙を送るたび、
最後に必ず短歌を一首添えていたという。
幸子さんはその手紙を友だちに見せたりしながら、
大切に守り続けてきた。
馬場大佐の名前は知らなかったが、封筒の束を見て「父はこんなの、私にくれたのよ」と笑顔を見せた。
彼女が取り出したのは、まさに馬場大佐からの報告書と、短歌がぎっしり書かれた薄い半紙の束だった。
こうして、私はようやく西原少将の血を引く幸子さんに巡り会えた。多磨霊園の手紙が届かなくても、愛媛の地で石碑という「手がかり」が私を導いてくれた。まさに、馬場大佐の短歌が76年の時を超えて私たちに届いたように。
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幸子さんの証言で、手紙の最後に別の筆跡で書かれた短歌の謎も少しずつ解けていった。
「かねてより 聞ける ガ島の辛苦をば 部下の便りに 目にも見るごと」
よく見ると、別の筆跡で
「部下」の隣に「友」の字が書き加えられている。
おそらく西原少将からの、
静かな返歌だったのだろう。
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一方、
アーサーさんはガダルカナル島に向かった。
遺骨や慰霊碑を訪れた。アウステン山では、村人が畑から出てきた遺骨をビニール袋に入れて置いているのを見た。誰の骨かもわからないまま、島に残されている。
教会では子どもたちの祈りの歌が響いていた。日本兵をかくまったため空爆を受けた教会で、今も島の人々が記憶を守っている。アーサーさんは言った。
「島の人たちは、自然に囲まれ豊かに暮らしている。
遺跡は朽ち果てても、短歌や詩は語り継がれる」
彼はアメリカの詩人、ウィンフィールド・スコットの詩も朗読した。「アメリカの水兵と日本のドクロ」。
戦利品として日本兵の頭蓋骨を持ち帰った水兵が、いつしかその「名前も知らない」兵士の人生を抱え込む話だ。馬場大佐の短歌の逆の側面が読める。
馬場大佐に関する資料は本当に少なかったが
それでも当時の新聞記事などで
断片的な消息を見つけた。
馬場大佐自身は、戦後インドネシアで終戦を迎え、
1948年に戦犯容疑が晴れて釈放された。
1975年、82歳で亡くなっている。
短歌以外の人となりは、ほとんど残っていない。
ただ、言葉だけが遺骨のように残った。
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戦争の惨状は、国民にほとんど知らされず、
玉音放送で敗戦を迎えた。
馬場大佐の言葉は、
歴史の教科書や資料には残らなかったが
日本軍の軽視した情報戦、慢心、そして飢え。
すべてが短歌という31文字に凝縮されていた。
そしてそこには
確かに、立場を越えた
人と人とのつながりがあった。
以上は、この取材に関する
ほんの一部。
実際には多くの専門家のかたや
関係者のかたにお会いして
貴重なお話をうかがったり
資料を紹介していただいた。
生々しい肉声による証言と
取材者の足でつづった
文化放送報道特番
『ガダルカナルのうた』は
横浜にある放送ライブラリーに収蔵され
無料でお聴きになれる。
機会があればどうぞ。


