こんにちは。今日は雪の予報でしたが、どうでしたか?
岡山では、雪にはなりませんでした。
息子は、学校が休みになることを期待していましたので、残念がっていました。
私は相変わらず、「観察者の視点でいること」の練習をしています。
その静かなエネルギーと同調する方法は、私の場合は先生から教えていただいた方法をとっています。
いままで、流れと同調するためにいろいろな方法を模索してきましたが、先生から教えていただいた方法が私には一番合っていました。
そうすると、私を強いることなく、自然にその状態に入ることができます。
先生は人によって、方法が異なると教えてくださいました。
すぐに、あることに没頭したり(観察者がいない)、批判したり(観察者ではなく、裁判官になっている)、自分の妄想にとりつかれたり、していますので、気が付くときは、もう一人の私が行動している私を見るように引き戻しています。
これが、私が旅の始まりのころみた、暗い座席にいる私(観察する自己)と舞台にいる私(行動する自己)の統合のさせ方なのだと思います。いままでは、どちらかいずれかで、分裂していましたから。。。頭でわかっていただけ。
ヨガの学校に行っていた時、瞑想の先生が世の中は、エネルギーとみるものみられるもので成り立っています、とおっしゃいましたが、その時の私は、エネルギーで成り立っているのははっきり実感できたけれど、見るものみられるもの、はまだ、実感できませんでした。(たとえ、イメージの映像でみていたとしても。)
観察する自己でいる、ということが、愛の状態でいる、ということでしょう。
このエネルギーの状態でいる時間をできるだけ長くしなさい、ということなのでしょう。
だからこそ、どんなことがあっても、このエネルギーと同調している限り、私はほかのエネルギーの影響を受けることはないので、その練習をするように、先生に言われたのだと思います。
なぜなら、愛のエネルギーの前では、すべてのものは、ひれ伏すからです。
やさしい雨がすべての上にふりそそぐように、その流れは私たちのよろこび、悲しみをすべて洗い流してくれます。そして、その雨は降り止むことはありません。私の胸の傷がその雨でやさしく癒されるまで、私がそのながれを受け入れる限り、降り注いでくれます。
拒否していたのは、私でした。
そして、愛は、好き嫌いなどではなく、とてつもなく、やさしく受け入れ、許し、与え続けるエネルギーだということがわかりました。それを私は自然から学びました。
そして、やさしいけれど力強い。
ただただ、そのながれを受け入れ、その流れに勝手に仕事をしてもらうだけで、私たちは何もしなくてよい、ことがわかりました。
私は先日、3日間連続で愛にまつわる体験をしました。
一日目は、私の敬愛するセラピストを通じた愛の受け取るセッション。(人間を通じて受け取ることがどういうことか、からだで学びました。)
二日目は、先生とのセッションで、先生のたたづまいからと、やり方をおしえていただき、自然から感じ、うけとったこと。
三日目は、映画です。映画の最後のシーンは、父親から娘への、愛の表現でした。
自然から受け取るにしても、人間から受け取るにしても、愛のエネルギーは限りなくやさしく、私の悲しみを溶かしてくれます。
ですので、私は最近毎日、以前とは違う涙を流しています。
私はこれを感じたいがために、山に行き、大人になりヨガ瞑想を始め、自分をある意味強いて探し求めてきましたが、これは、強いて得るものではありませんでした。
これは、自分をひらき、うけとるものでした。
しりませんでした。
経験したことがなかったからです。
いま、このエネルギーを感じられることがうれしいです。
そのために、いままでの欠如があったのだと思います。
そうでなければ、探し求めないから。。。
そしてそれを感じる道具がみなさんのからだです。
からだがあるから、その感覚として、そのエネルギーが感じられるのです。
今日も皆さんがそのエネルギーにコンタクトされることを祈ります。
木かげ