其の二十三 『格言で討ち入り⁉︎ “令和の忠臣蔵”』
〜“浅草ときわ食堂”の魅力をもとに〜

【第壱章】
元禄14年(1701年)3月14日
於:江戸城本丸御殿 松之大廊下

この日は朝廷より勅使が江戸へ下向する予定。赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は饗応役を仰せつかり、その指南役は高家の吉良上野介義央であった。

当日の巳の下刻(午前11:40頃)。

浅野内匠頭は吉良上野介に対して、脇差を抜いた上で江戸城内で刃傷に及んだ。

これは一般的には本件にまつわる出来事において、浅野内匠頭の中で生じた、吉良上野介に対する遺恨が原因とされる。

浅野内匠頭はその場で捕らえられ、芝愛宕下の田村右京大夫の屋敷に、一旦身柄は預けられることとなった。

やがて御公儀より報せが届き、即日切腹の沙汰が下った。浅野内匠頭は無念の次第と相成った。これにより、赤穂藩は改易処分となっていく。

赤穂城は開城され、引き渡しとなった。赤穂藩家老の大石内蔵助以下、旧赤穂の家中は路頭に迷う仕儀に陥った。

しかしこの時より、大石内蔵助をはじめとする家中には、期するものが心中にあったと、巷間にはそう伝わっている。

😋 “目抜けソテー バター正油+やっこ”
(6月26日B定より)




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【第弐章】
元禄14年(1701年)3月14日〜元禄15年(1702年)12月14日
於:京都郊外山科の地、或いは江戸の各所 .etc

期するものを成し遂げるまでには、実に1年9ヶ月の月日を要することになる。旧赤穂の家中にとっては実に長き日日のこと。

大石内蔵助と胸中同じくする赤穂浪士たちは糊口を凌ぎながら、耐えて生きる日日を過ごすことになる。

内蔵助は京都郊外の山科の地で女遊びに興じつつも、それも含めて内蔵助の中では、算段の内であった。

この間、大石内蔵助以下、赤穂浪士たちは、その日に向けて秘密裡のうちに着々と支度を進めていくことになる。

そして艱難辛苦に打ち克ち、やがてその日を迎えていくのである。

😋 “たらの揚げ出し+やっこ”
(7月29日のB定より)




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【第参章】
元禄15年(1702年)12月15日未明
於:本所松坂町の吉良邸

この日の未明、寅の上刻(午前4時)。

大石内蔵助以下、四十七士たちは本所松坂町の吉良邸を目指して出立していった。

予めの手筈にしたがい、表門隊と裏門隊の二手に分かれた上で、二方向から吉良邸に討ち入りをしていった。



赤穂浪士たちが憎っくき上野介の首級を見事にあげ、本懐を成していく様のこと。

本稿においては、それはこのようである。日本に古来よりある、愚か者を罵る際に用いる格言に基づいてのことである。

「奴よ、冷奴よ‼︎ お前なんかァ、“豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえッ”」

😋 “あこう鯛粕漬焼+やっこ” & “冷奴”
(8月26日A定&レギュラーメニューより)



「憎っくき上野介め‼︎ 主君の仇である‼︎ “そうめんで首くくれッ”」

😋 “そうめん(天ぷら付)”
(レギュラーメニューより)



こうして吉良上野介は、豆腐の角に頭をぶつけ、そうめんで首をくくって逝ったのである。

大石内蔵助以下、四十七名の赤穂浪士たちは見事に本懐を遂げた。勝鬨をあげて湧き立った。

😋 “ほうれん草おひたし”
(レギュラーメニューより)



その後、主君浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺まで、赤穂浪士たちは凱旋していった。

主君の墓前に上野介の首級を捧げ、本懐を遂げたことを報告したのだった。



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【終章】
元禄15年(1702年)12月15日〜現在
於:日本列島の各地

昨年の春、松の廊下の一件により、主君浅野内匠頭は無念の生涯であった。1年9ヶ月の時を耐え凌ぎ、赤穂浪士たちはそれを見事に晴らした。

こうして彼らが成した一件は“忠臣蔵”として、末代までの語り草となっていった。

赤穂の四十七士たちは“松鯛”となったのである。

😋 “松鯛刺”
(9月8日単品メニューより)



神君家康公が江戸に開幕して以来、約100年後の出来事であった。





文責・味酒 文処 拝