其の十 『新・東京物語 2014-24』

~O.ヘンリー『賢者の贈りもの』をもとに~

 

街が一番華やぐのは、クリスマスの頃であろうか?しかし、その華やぎも裏通りにまでは届かない。その日、男は上野にあった。郵便局へ向かう袂には、一通の封書。決意めいた足取りであったが、気持ちはいく分楽ではあった。何かの運びにでもなるのか?あてがあるというほどではなかった。しかし、まずは送ってはみようかとの決意だけは、自らの中にあっての話だ。

 

男は仕事がうまくいってるとはいえなかった。いや、生き方がうまく運んでいかない。気持ちの中では行き止まりを感じている。だからといって、女からの便りに望みがあるということもない。ただ、話は通ずるだろう。それがどう動くのか?動いたら、考えるだろう。しかし、動くことはあるまい。

 

時は流れる。あてもなく流れる。人生というものは、たかだか35,6年ほどしか生きてなくとも、月日の流れというのは、まるで味気ない。生き方にも色味などなくなり、ただただ毎日は過ぎていく。男は生き方に色味を添えたくなっていた。男の場合は、そのためには同じ色味の女しかなかろうと思うのだ。自らの色味は、本来強い。しかし、白色でできている。その色味は男の内側まで染めきっているわけではない。いや、むしろ内側には、ほかのいくつかの色味を持つ。男は外側を白色でまとっている色味なのである。男が探しているのは、そのさまざまな色味を活かせる女である。

 

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今、窓口で封書を投函したが、宛名には女の名が書いてある。候補の女である。同じ色味に違いない女である。男には目星のつけ方があるのだ。しかし、とはいっても、ことが運ぶイメージは何もないのだ。はじまりは、それだけであったのだ。

 

やはり、何も運ばない。暦は年が明け、春先から新緑のころへと。男はふたたび、封書を送りはじめる。6月になると、しばらくは封書を定期便にしてみる。運びは何も生まれない。労してみることが、かえって徒労を生む。

 

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ことが動く。男が一年半ほど努めたのちである。しかし、思い通りにはならぬ。女というのは難しい。だが、秋になり、月日の流れの中で、ひとたびは女を眺めることができた。運びのきっかけであった。

 

やはり美しいものである。整った顔立ち。褐色の肌。髪はそれに似つかわせるようにして、茶色に染めているらしい。ライトの中でも映えるが、女は太陽に照らされると、その美しさが際立つはずである。健康的な印象である。遠目で見ていても長身であるのはよくわかる。

 

2016年9月18日、日本橋の劇場で目にした舞台上の女の姿は、このような印象であった。造形として眺めていた心持ちである。カーテンコールのとき、女は一度だけ男を見やる。刹那の中に確信が生まれる。まちがいなかろう。女は大きな手がかりを男にのこした。

 

その夜、男は一人で女を待ってみたが、思い知らされていた。ことの運びとは、容易ではありえぬ。今宵はきっかけにはなろうが、届かぬところにおるのは、変わりはしない。努めることでしか、道は生まれぬ。開けたものはある。しかし、道のりは依然、長いらしい。

 

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気持ちが追い込まれる。定まらぬ。いえ、なにさ、女のことを申しているのではない。仕えて生きるとは、気持ちに波を生む。波浪に苦しむ。心の中のよしなしごとども。

 

疲れも重なる。それでも信ずる道には時間をつくる。動いてみる。女に対する気持ちには、足でかせぐ。男は歩いた。歩いてかせいだ。男の目にやがて見えたのは、愛宕の石段。たゆまぬことしか、示せぬ自ら。そうでもせねば、伝わりはしまい。男は知ることになる。愛するとはかくのごときものであると。容易なものではなかろうものには、努める姿が、生み出すカギと信ずるようにして、男は歩く。

 

次の年が明け、愛宕の石段を昇る頃には、男の気持ちは固まりゆく。妻にすべきであろうと。男にとりては、月日を要した。月日の証しに手元にのこした、あの日の切符。男はやがて、女に寄せた。男は女にすべてを寄せた。それでも感ずる、つづく道のり。男にとりては難しきこと。愛することとは、難しきこと。しかし、9年半ほどの月日の中で、女にたいし、時を重ね、努める姿の証しを確かにのこしたであろう。

 

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女ははじめ、わからぬ男として考えていたにちがいない。しかし、女にはやがて、やむにやまれぬ事情が生まれたらしい。女は男を信ずるようにしてみたようだ。何がどう転ぶかなどは、まったくわからぬ。人を愛するということとは、道理の中の世界とは、異なるものかもしれぬ。

 

男は女に知らぬ世界へと誘(いざな)うようにして、力を与えた。女は努め、稽古を重ね、頭の中は、ずいぶん変わった。女はやがて大蛇(オロチ)を退治。男に対し、気持ちを寄せた。しかし、女にとりては、理解がすすまぬ、男の部分。そんなに長く歩む必要はあるまいと。

 

女は悩む。しかし、女の悩みが調和を生む。はじまりは友や姉と。幼きころよりの、馴染みも加わる。女は友の中にある。本当の友らしい。互いの色味が出し合えるもの同士らしい。それは男が長い距離を歩むことにより、生まれた調和。女は男に似つかわしくなるよう、髪を黒くしてみた。男に色味を合わせる姿勢を示してみた。感謝の気持ちも感ずる毎日。女は幸せだった。しかし、男は本当に長い距離を歩いている。

 

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男も悩んでいる。自らの手元には何も残さなかった。すべてのものは女のもとに寄せたのである。自らはいまだに一人である。いや、それは構わないのかもしれないのである。男とは与えることで喜びを感じるものである。女は受け取ることに大きな喜びを得るのであろう。やはり基本原理はそうであり、男と女は、そうできているのである。そして、生命体とは、かくのごときして成立しているのである。しかし、その中において、人間は脳を発達させたのである。言葉というのは、やりとりを生むための道具である。男は感じているのである。一方通行な気分を。

 

いや、それは女とて、同じやもしれぬ。互いに努め合っていても、終わらぬやりとり。それは互いの気持ちの一方通行によるものであろう。ならば、互いに、気持ちを込めた贈り物をすればよい。それが労(ねぎら)いになろう。男は手元にのこった唯一のものを、だから女に寄せた。男は急いていたのであろう。女はまだ、なにも寄せてはいない。

 

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男ははじまりのところにおる。話のはじまりでも明らかにしてある。そして流れを生み出してきた。女は流れの中に身を寄せればいいのである。そこに身を寄せることは、女に力を与えるのである。家庭を築き、広がる未来を、である。女には未来が待っている。それは男からの贈り物である。女からも何かは贈られるだろう。互いは緩め合う存在にちがいないのである。男は信ずる。そして、長い時を経たのち、男の女を愛する気持ちに対して、女も愛を送り返したのだった。

 

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読者諸賢、お察しいただきたい。和の国では昔からこのように言う。“転ばぬ先の杖”と。つまり互いに贈りあうものとは、例えば、男のそれは修養の精神であり、女のそれは、自らの信ずる友らであろう。男は歴史を学びの場とする。男が信ずる三人の次郎とは、いずれも女と寡縁の生き様であった。


長州の寅次郎は、女を知らぬ男だった。柴又の寅次郎は、フラれてばかり。鶴川の次郎は愛妻家で、女遊びをせぬ。しからば、自らも女遊びもせずに、机に向かい、役割意識に基づく生き方を誓いとして、女に捧ごうと。男は信ずる。女は嫁取(めと)らば、尽くすに違いないと。内助の功という、それを。

 

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仏国では、このように言うらしい。“C’est la vie.”(ままにならぬのが人生よ)と。男の贈り物を受け取った女は、やはり、最良の友らを用意するようだ。

 

男はもはや、『暗夜行路』を歩いているのではない。むしろ、“エンヤ~コ~ラ~”っと!気分を弾ませているのである。志賀直哉である。学習院にて学び、乃木院長の教え子であった。かといって、男は院内におるのではない。娑婆に暮らしている。いや、今は放浪暮らしにより、うわの空である。しかし、男は右巻きである。気分を弾ませた男に対して、同じくして気分が乗った女の友らも協力的である。とまれ、愛するというのは、かくのごとくして、交わし合うことなのであろう。

 

まもなく男は、すでに寄せし切符に記されしこと(11列22番)をもとに、女とともに生きる、覚悟を決めるだろう。男はどこまでも、女を信ずる。だから、男は懸命になる。女は、『小僧の神様』に違いないのである。しかし、まだ、女はままにならぬ。ならば、鮨でイメージしようではないか。めぐり、めぐる。

 

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その日、男は約束の街に向かうだろう。そして、男はそこで、女に逢うことができよう。その時の男の気分は波に乗り、“軍艦巻き”のようである。長い距離を歩いた男の気持ちを察するべきであろう。

 

“刺身”は辛い。我は“巻物”なり!“手巻き”なり!酸いも甘いも、飯は“酢飯”で。侘びも“さび”も、“さび抜き”ご勘弁!“しょうが”ないではないか、“ガリ”は必ず。“ツマ”は、お前だ。“握り”、いや契りはできている!

 

男の気持ちの流れは、“寿司桶”の中で成立している。そして、鮨というのは、食らうにあたり、“醤油”は“むらさき”と表現すると、通がわかるそうな。同じものを言い換えてみただけだが、オツな表現である。お後がよろしくなった頃合いで、本稿はまもなく、“上がり”である。いや、それはまだ先であったか。いやはや、それを言っちゃあ、おしまいである。男の巻きは、時に左に転ず。

 

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中華の国では、こうとも言う。“人間万事、塞翁が馬”と。何がどう転ぶか、人生はまったくわからぬ。そのようなものでしかなかろう。然りである。男の巻きは左右に転ずる。右に、左に。転ぶ男の足元は、不確かである。

 

まもなく、男の手元には、杖が届くであろう。思えば、ひと夏の思い出のような、いい恋だったと互いに思う。『ミッドナイト・サマー・ドリーム』とも言える。ウィリアム・シェークスピアである。骨折には至らなかったが、骨折りではあった。

 

エックルバーグ博士のはなむけのまなざしにも、大いに感謝したい。今度は、『グレート・ギャツビー』である。男が歩いた長い距離は、話題を満載にする。女は、長い距離を歩き、自らを信じた男に対して、憩いを贈るらしい。それは、“感謝祭ウィーク”という憩いのとき。男の頭は、アンタイディ(UNTIDY)なものになっているからであろう。骨接ぎだらけになりかけている。

 

その週、二人はともに過ごし、そして、やがて、旅の空にも出よう。二人は家族になり、新たな命も築くであろう。されば、互いに、友らに約束せしことなども、贈るにちがいない。男は転ばず、女は母になる。幸せというのは、かくのごときものにちがいない。右に巻きながら、男は思う。

 

二人はまもなく出逢うことになるだろう。

結ばれることにもなるだろう。

 

古(いにしえ)の賢者は、こう思う。

 

互いの未来に幸あらんことを、

祈るのみである。

 

文責・味酒 ふびと 拝