保育園の年長から中学まで10年一緒だった同級生と、30歳を過ぎた頃に15年振りぐらいに再会した。



彼が就職をして過労で身体を壊し実家で療養中だと聞いた時に、他の同級生を介して連絡先を聞いて会うようになった。


中学を卒業してから会っていなかったが、無口で大人しい印象からよく喋る活動的な雰囲気へと変貌(へんぼう)を遂げていた。


彼は、宗派を問わずキリスト教や仏教などの教えを学んだり、手相や占い、風水に至るまで、幅広く熱心に勉強したと言っていた。



小学生ぶりに、私の育った家に上がり、私の置かれている状況を聞いてくれた。


祖父が数年前に亡くなったこと、現在は祖母と二人で暮らしていて、祖母が私から日常的に暴力を振るわれ、嫌がらせを受けているという根も葉もない噂を周囲に話していることなど。


彼は、家の中を見回し、祖母からの話も聞いた上で、私に気を遣っている様子でもなく、本音を言っている表情で、

「おばあさんが嘘をついているね」と、私を信じてくれた。



彼とは、小学生の時も私が住んでいた家で数人で遊んだり、一緒に課題をしたりはしていたが、私の祖父が色々な事業をしていて、当時は軌道に乗っていて、傍目(はため)からはお金持ちの家に住んでいて、何の問題もないように見える家庭で、違和感は感じなかったと思う。



15年以上経って、今までの経緯や、同じ敷地内に叔父夫婦が住んでいること、私の両親のことなどを改めて話した。


色々と複雑だったんだね、と驚いた。


その後も、彼とは電話で話したり会うようになった。



彼の言う、

「赦(ゆる)しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」

という教えは、


心理学の

「返報性(へんぽうせい)の原理」

に通ずるところがあり、



彼が、

今は、社会や世界のために自分の出来ることをしたいという域(いき)に達したよ

と話していたことは、


心理学者のマズローが提唱する5段階欲求説の

6段階めの欲求

「自己超越(じこちょうえつ)の欲求」

に酷似している。




宗教や信仰などは、

親や周囲の人が世話をしすぎた人や、自分の殻に閉じこもらなければならない環境にあった人のためにあるもので、



精神医学や心理学などは、

トラウマがありすぎたり、自分一人で様々なことをしなければならない状況にあった人のためにあるものなのかもしれないと思った。



人間は、自分の人生の中で経験したこと、感じたこと、考えたことしか分からない。


他人は自分と全く同じではなく、一人として同じ人間はいない。





私と彼の同級生のお兄さんが自死したことについて、何故だと思うかと理由を訊かれたことがあった。


私は、彼らの母親が熱心な教育ママであったこと、

有名私立大学を卒業した後、実家に戻り、就職先の歓迎会で酔って帰って来て、最期に選んだ場所や手段などを鑑(かんが)みて、


親からの条件付きの愛情のようなものと感じ、大学を卒業して自身の役目を終え、力尽きて、もう頑張ることが出来なくなり、アルコールによって理性が麻痺(まひ)したような状態になったのではないか、と自分の経験と照らし合わせながら答えた。



彼は、「そうだよ。」と言った。



解き方は違うが、答えが一致した。


使う方程式は異なっても、解答が同じになる問題のようだった。




彼が何に当てはめて解いたのかは分からないが、

周囲の人々に私が嘘をついていると思われ、誰も信じてくれなかった状況で、私の話を信じてくれた彼の存在が大きかった。