水の流れとは、今ある土地に水がある流れと、時間の経過とともに変わる昔あった水の流れが思い浮かぶ。特に山肌の地肌に沿って地形などをなぞっていくと、以前そこは、大水が流れたあとなんだなぁと見えることがある。そんなおり、時間の経過とともに水の流れは、自然に流れが変わる場合とおのずと人間の手によって流れが変わってしまう場合もあるということだ。河川では、水の流れが止まってしまった跡地には、チュウサギさんが白さをより、輝かせながら一時の満腹感が募ったに違いない。毎日、ちょっとした水たまりの中にいる。はやっこの稚魚たちをこぞってたべあっていたあの頃。つい最近までは、大御所の鯉こく料理にはうってつけ、黒い大きな真鯉がおよいでおった。ところが水たまりも消え失せたころ、そこには、何ら材料すらなくなってしまった。厨房の跡地のようだ。長ーい帽子を深くかぶり、これから有名調理人目指す、金の卵っ子たちを育てるのである。掛け声一つ、なにがあったか、何が起きたかと思いきや。卵がわれた音がしたら、現場のみんなもかたずをのみ、様子をうかがうが。せめて卵からヒヨコが誕生したときのように喜びの雄たけびを上げとほしいと願うのは、かぎりなく大きな夢、または、野望である。それは、奇跡の連続の中に起きる偶然との出会い。やはり、過ぎ去るは、日々の暮らしの中。そこには、共鳴できる何かしらの姿あってのことだろうと思う。水の流れが止まるとき、いずれ生命の源が消え失せてしまうでは、おおよそ、その後の予想もつきかねる。しかし、人間が住みよい環境づくりには、ただ、暮らすのではなく。時には、自然の豊かさをダイレクトに触れる現場も、すちゅえーしょんが大切な時である。夏の日差しを夕日にそこで、お滝上げしながらのみんなのバーべ級。お味のほうは、いうまでもなく、絶品。なぜに焼いただけのグザイがそれだけおいしいのか。それこそ自然の源には、そこに隠されたお味。生命の源があるのだと。人は、いつしか悟りの境地に達することができるのだろうと確信した。ありがとうございます