「時は金なり」の意味するもの | 方丈随想録

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格言として「時は金なり」というのがある。ベンジャミン・フランクリンが制作・販売したカレンダーに添えた格言のひとつだ。英語では"Time is money."である。「早起きは3文の得」という日本のことわざのように、「時間は大切です」ということを意味しているのだが、それにとどまらない思想的意味があると小生は考えている。

高校時代まで小生はマックス・ウェーバーという社会学者を知らなかった。ところが大学の授業で、社会学のみならず宗教学や倫理学でもウェーバーの著書である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本が紹介されたので岩波文庫で読んでみた。何かと刺激的だった。この本の中にフランクリンが登場し、プロテスタンティズムの倫理を象徴する言葉として「時は金なり」という格言が紹介されている。

ところでだが、「時は金なり」ということは「時間(time)=金(money)」ということだが、このことに何となく違和感を感じないだろうか。小生は感じたものだ。時間は金以上のものではないだろうか、と思うのはごく自然だ。人生すなわち生命には寿命があり、それはある程度の長さの時間である。時間は生命であり、生命は基本的に金で買えないものだ。しかし、プロテスタンティズムは「時間=金」と規定した。異質なものを等号でつないだのだ。この説明としては、プロテスタントにとって人生とは神への奉仕であり、その奉仕には禁欲が伴う。その奉仕として具体的には世俗的労働が選ばれ、労働の成果としての金は禁欲の成果として肯定される、と捉えることができるわけだ。禁欲の倫理が営利肯定の論理に転化する、とウェーバーは説いたのだ。

古来、キリスト教の倫理は禁欲と同時に営利否定があった。そのために人里離れた場所に修道院を建てて信仰に生涯をささげた人々がいたわけだ。「時間=金」という等式は簡単には成立しない。この等式を成立させた条件として何か忘れているのではないだろうか。何故「時間」と「金」がイコールになるのかと問うと、それは共に共通の地盤が形成されていたからだ、と思う。それは何かというと、一つは「幸福」、あと一つは「合理性」だと思うのだ。近代の特徴は、人間は現世において幸福を実現すべきであるということ、そしてそのために理性の力を発揮しなくてはならない、ということだ。するとこうなる。「時間」=「人生」=「幸福&合理主義」という等号が成立する。そして「金」も「幸福」と「合理主義」と等しい。かくして、「幸福」と「合理主義」は「時間」と「金」を結び付ける媒介物であるのだ。ということは、「時は金なり」という格言は、幸福な人生を実現することを肯定するヒューマニズムと理性を用いて自然や社会を住みやすいものに変革できるという合理主義の信念を基礎にしたものだ、ということが明らかだ。「時は金なり」という格言は、以上のような近代的な価値観を背景にして汲み取らなければならない意味を持った言葉なのだ、と思う。