仏教を諦念と絶望の教えにするな! | 方丈随想録

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小生が仏教に関する基礎的な知識に触れたのは半世紀前のことになる。円覚寺の僧であり仏教学者であった古田という先生の講義が仏教との出会いだった。古田先生の書いた仏教概論の教科書も読み、何となく分かったつもりだった。しかし、今更「無知の知」を自覚したのだ。

宗教は人間の「心」あるいは「霊魂」にかかわるものだから、では仏教は「心」とか「霊魂」についてどう考えているのだろうか。そして、人間存在の始めと終焉をどう理解しているのか。

キリスト教では聖書が根本的な経典だが、仏教は大蔵経という位文献が多い。いわば、仏教は多弁なのだ。多弁だから最も根本的なところを胡麻化しているのではないか、と疑うこともできる。ところが、檀家としての我が家の宗派で法要をして斉唱する「在家勤行集」は、帰依することのみ熱心で、人間存在にかかわる種々の疑問への答えにはなっていない気がするのだ。「般若心経」が思想的には意味深いのだろうが、ではその思想を我々の生き方とか世界観と関連しての説明はない。斉唱して終わり、である。種々の仏様や先達を礼賛する文言をいくら唱えても、その唱和に何か意味があるのだろうか。多くの人が仏教を離れる理由の一つはここにある。仏教は信者に仏教的人間観、人生観、世界観を説明できないのだ。お経を読むだけでOKという時代ではないだろう。説明できなければ、それは詐欺と同じレベルだ。

小生がふと疑問に思ったことを記すと、例えば仏教では「無我」を主張する。バラモン教では「我」という永遠不変の自我を設定し、それを「アートマン」といった。人間は死ぬと生前の行い(業、カルマ)によって新たな生き物として輪廻転生を繰り返す、と説くのがバラモン教である。仏教は「無我」を主張するから、輪廻転生なるものは成立しない。輪廻は英語ではreincarnation というらしい。敢えて邦訳すると「再受肉」である。ということは、「アートマン」は霊魂のようなものと理解されている。ということは、「無我」(アナートマン)とは霊魂の否定ということだから、再生を通して霊魂と肉体の再結合、すなわち輪廻はありえない、ということだ。このような理解を前提とすれば、仏教が人間存在を「五蘊」(色、受、想、行、識)に分け、「五蘊」の統合したものが人間だ、という理解になる。「五蘊」の統合体としての人間が死ねば何も残らない、この無常を「縁起の法」として納得せよ、というのが仏教ということになる。こんな理解でいいのだろうか。何か足りない。何かおかしい。それは何だろう。

「五蘊」は人間の成長過程で変化する。日々の生活の過程でも変化するだろう。いくら変化しても変わらないあるものがあるはずだ。それが「アイデンティティ」というものだろう。「五蘊」の基礎に、あるいは「五蘊」を超えたものとして「あるもの」があるはずなのだ。カント哲学で「先験的統覚」と表現されたものがあったが、それに相当するものが仏教には欠けている。譬えてみれば、「五蘊」の「色」はパソコンのハードウェア、「受、想、行、識」はアプリであり、WINDOWSに相当するものが想定されるべきだったと思う。想定されるものは、やはり「霊魂」だろうか。「霊魂」が想定されなくては、仏教は救済の宗教にはなりえない。