教育熱心なご家庭は、早期教育に興味がある方も多いと思います。
我が家は、Z会の中学受験コースを取っていたので、小学3年生からは、がっつり「先取り」学習をしているわけですが、幼少期~小学校低学年までは、特段、早期教育や学習内容の先取りはしませんでした。
小学校受験のための塾には少し通いましたが、ペーパー重視ではない学校なので、早期教育っぽくはない対策で対応できました。
特に、幼稚園の早い時期に「ひらがな」「カタカナ」「計算」を教えることはしませんでした。
早期教育とは無縁の実母でさえ、ひらがなを教えることにはなぜか積極的?で、「一度覚えたら、町中の文字を読むようになるんだから、早く教えればいいのに」とよく言われたものですが、無視しました
これには、私なりの教育信念があったからです。
それは、「幼児教育」は大切にするけれど、「幼児期の早期教育」はしない、というもの。
「幼児教育」は、子供の発達段階(年齢や個々の成長で今できること)を踏まえた上に成り立っていて、情緒・精神的な発達面での許容量をものすごく意識します。
なので、小学校受験のための塾では、「幼児教育」としては、子供らしく能力を伸ばしていただいたように感じます。
一方、「早期教育」ではそれらをあまり考えず、「早くできることならばやらせてしまおう」「早ければ早いほど、優秀で素晴らしいこと」ということが第一になっているものが多いように感じます。
個人的には、早期教育を受けることによって失うものがあるような気がして、それがとても怖かったのです。特に幼児期は。
これは、子どもが小さいときに、もうどこで見聞きしたかは忘れてしまいましたが、
絵本において、子どもが自分で字が読めるようになってしまうと、絵本だからこそ受け取れるものが変質したり、失われたりしてしまう。
そして一度、字が読めるようになってしまうと、もう後戻りできない。
こんな内容のことを聞いたからです。
確かに、絵本って、当たり前ですが、たっぷり絵が描かれていて、児童書やその他の本の「挿絵」とは全く異なります。
むしろ、「絵」本なわけですから、その「絵」に価値があるわけですよね。
お話の部分は誰かに読んでもらって、子どもは文字を読まなくていいからこそ、絵を見ながら頭の中でイメージを膨らませて楽しむことに全集中できるわけです。
でも、子どもが自分で文字を追うようになってしまうと、それができなくなってしまうわけです。
文字が読めるようになると親は子供が賢くなったような気がして嬉しいけれど、逆に、本来もっと育つはずだったイメージする力が育たなくなるのかな??
何かを得ることは、同時に、気づいていない何かを失うことになるのかな??
絵本についてのこの言葉は、子どもの教育について考えるとき、物事は思っている以上に多面的にみなければならない、と思うきっかけになりました。
そんな思いを経て、我が家は、教育に力を入れるならば、年齢になれば誰もができるようになることを、親が率先して先に先にと与えるよりも、今その年齢で習得するべきことで100点を目指そう、と思うようになったのでした。
長くなるので、続きます。