●●●今日もありがとうございます●●● 【VOL.94】



ララ物資』という言葉を・・・最近知りました。


Licensed Agencies for Relief of Asia


の英文の頭文字を取って、


LARA(ララ)物資』 と呼ぶそうです。


<<アジア救援公認団体>> ・・・とは何でしょうか?


1945年8月15日 第2次世界大戦の終戦後、


戦費支出で疲弊し 度重なる空襲で焼け野原の日本・・・。


餓死者は 10万人もいたそうです。


1946年11月30日、


アメリカから 450トンの食料、衣類、医薬品・・・が、


救援物資として 日本に届きました。


このことから 日本の学校給食も再開されました。


でも この救援物資を送ったのは、


アメリカ政府でも アメリカ軍でも無かったのです。


新聞社の特派員としてサンフランシスコに在住していた、


浅野七之助(盛岡出身)を中心とする、


在米日本人、日系人たちが・・・、


例え一食を分かち、


一日の小遣いを割いてでも、


それ等 同胞難民に対し、


何とか援助して上げなければならない。


という 強い思いで・・・ 集めた寄付金で、


何とか・・・ 購入した物資だったのです。


戦時中の在米日本人、日系人たちは、


財産も没収されて 強制収容所に入れられていました。


その時に 貧しい暮らしをしていた日本から、


異国の地で・・・ 苦しんでいる同胞を助けるために、


醤油、味噌、医薬品などを送ったそうです。


この時の 恩返しをする気持ちで


財産も没収され 住むところもままならない・・・はずの


日系人たちが・・・ 少しずつ寄付金を出し合ったのです。


しかし 最初は寄付金も集まらないため、


浅野さんは 自ら 新聞『日米時事』を創刊して、


記事で 全米の日系人に訴えかけました。


やがて この新聞はアメリカだけでは無く、


中南米の日系人たちからも 読まれるようになり・・・、


寄付金は 全米や中南米の日系人たちからも、


集まり始めました。


しかし 日本へ物資を送る機関が無いため、


アメリカ政府に陳情して 1946年9月認可に漕ぎ着け、


救援物資を送ることができる公認の団体である、


LARAアジア救援公認団体が発足しました。


ララ物資は 日本だけでは無く・・・、


アジア各国・・・ にも送られたそうです。


(現在に換算すると 8,000億円相当になるとか・・・)


これら 日米交流の功績から、


浅野さんは サンフランシスコより表彰され、


表彰された5月16日は、


サンフランシスコの浅野七之助デー』と制定されました。


戦後 アメリカからの援助物資で、


日本人が助けられたことは 知っていましたが・・・、


占領軍司令官マッカーサー が本国へ働き掛けて、


アメリカ政府が援助してくれた・・・ と思っていました。


日米の日本人たち の「お互いへの思い遣り」から、


このような エピソードが生まれるなんて・・・


久し振りに・・・ ボクは感動しました




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