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この間面白いインド映画を二つ続けてみました。「あなたの名前を呼べたなら(Is Love Enough? | Sir)」 と 「マダム・イン・ニューヨーク(English Vinglish)」 というものです。

 

 

 

上記の映画が両方とも快活で楽しいが、インドでの貧富の差と英語力の有無に基づく社会階級の形成という重い課題を取り上げているものです。そこで私もインドでの英語教育と貧富の差との関係について考えさせられてしまいました。

 

バスケットとほうきを持った若い女性のスタジオポートレート、インド(1921年頃)

バスケットとほうきを持った若い女性のスタジオポートレート(インド、1921年頃)

英語力がインドで貧富の差にどうつながっているのか

日本では、インド人は皆英語が話せるという印象があるかもしれませんが、これは現実とは違います。流暢に英語が話せるインド人は人口のわずか5~7%です。実用的な英語の知識を持つ人は30~35%程度かもしれません。都会人や上流階級の人の方がはるかに英語力が高い傾向があります。

 

英語が話せるか話せないかでエリート層へのエントリーが決まることが多いのです。2014年のTimes of India紙の調査によると、流暢に英語が話せる人の収入はまったく英語が話せない人のそれより34%も高いそうで、少しでも英語が話せる人は13%も多く稼いでいるそうです。インドでは英語力が成功のカギを握っていると言えるでしょう。

インドの伝統的教育制度

イギリス帝国の植民地になる前までのインドは農村部と都市部の両方を含める広範囲に分散された教育制度がありました。イギリス帝国の高官のトーマス・マンロー氏が19世紀初頭に、インド現地の教育機関の数と種類、通う生徒の数と地位、そして教育の内容を調査し、各村に少なくとも1校の学校があり、下位カーストも含めてすべてのカースト(インドの階級制度)の子供たちがこれらの学校に通っていたと報告しました。

 

さらに、1821年にもう一人のイギリス帝国の高官のG. L. プレンダーガスト氏が「少なくとも1校の学校がない村はほとんどなく、すべての町や大都市に多数の学校がある。それらの学校では、インドの子供たちは読み書きと算数を教えられています。正確に帳簿を管理できない耕作者や商人はほとんどいなく、我が国(イギリス)の下層階級には見られない(識字のレベルだ)」などと述べていました。

 

また、1830年に、インドでキリスト教の宣教師をやっていたウィリアム・アダム氏はインド東北部のベンガル州とビハール州には約10万校の学校があると報告しました。

インドの伝統教育制度の解体と英語教育の導入

有名な英国政治家・歴史家であり、当時インド総督評議会の法務委員として務めていたトマス・バビントン・マコーレー氏は1835年に「インド教育に関する覚書」と言う政策文書を提出しましたが、中には「我々は現在、我々と我々が統治する何百万もの人々との間の通訳となる階級、すなわち血と肌の色はインド人だが、趣味、意見、道徳、知性はイギリス人である階級を形成するために最善を尽くさなければならない」と書いてあります。さらに、「私は、アラビア語とサンスクリット語の書籍の印刷を直ちに中止し、カルカッタのマドラサとサンスクリット大学を廃止することを提案します」とあります。

 

結果1830年代以降、インドの伝統教育制度が体系的に解体され始め、西洋式の学校が導入されました。西洋式の学校は、イギリス帝国植民地政府の事務員、翻訳者、忠実な仲介者などを養成することを目指し、主に大都会に集中していました。一方、植民地政府の規制や資金提供の停止により、地元の学校が徐々に解体されて行きました。

 

英国政府のインドにおける教育政策は、大衆向けの初等教育よりも英語での高等教育を優先し、教育資金の大半は都市部に投資され、英国政府のニーズ (行政、貿易) に応えられるエリート層を作り上げることを目指しました。一方、農村部の教育は、農民が植民地統治とは無関係であると見なされたため、無視されました。

 

結果、多くの人が読み書き・算数が出来ていたインドは、1872年には識字率がなんと3.2%まで落ちていました。1947年、イギリスから独立した当時も識字率がわずか16-18%だった。その後徐々に上がり、現在80%近くだとされています。

英語での教育はインドにとって良いことか悪いことか?

植民地時代には、英語での西洋式教育を得たインド人はイギリス帝国政府の仕事等につき、インドのエリート層となって行きました。このパターンはあいにく、インドが独立した後も続いています。英語力は仕事や地位に直接結びつくため、今でも憧れのものです。しかし、英語での教育が受けられる学校は学費も高く、都市部に集中しているため、ますます都市部のエリート層と農村部の貧困層の間に格差を生み出しています。

 

西洋式の教育は、今や世界どこでも標準となっていますが、英語での教育はイギリスの植民地だった国々の独特な特徴かもしれませんね。例えば日本や中国、タイなどでは、現地の言葉での教育が主流で、英語が話せる人は限られていますが、だからといって何も損してない気がします。

 

もちろん英語ができればグローバルな人材になり得るので、その分イギリスの植民地だったインドは、グローバルな人材がたくさんいます。ただインド国内では英語力を持つか持たないかによって社会地位が決まってしまうのがあまり良くないことだと思います。

 

これは今インドで大きな政治課題ともなっています。政党によっては地元の言葉での教育を優先したいと考えている政党もあれば、今の世界においては英語が大事だと思っている政党もあります。正直な話、この課題は複雑すぎて私にはどっちが良いのかよくわかりません。皆さんはどう思われますか?是非コメントで教えてください!

「マダム・イン・ニューヨーク」と「あなたの名前を呼べたなら」

上記二つの映画には、インドでの社会地位の格差が2つの異なる目線から美しく描かれています。

 

最初の映画では、主婦であり起業家でもある女性が、英語が話せないという理由で、家族や周囲の世界から軽視されている様子が描かれています。

 

2つ目の映画では、英語が話せない村の貧しい労働者階級の女性と、英語を話す裕福な男性の間の恋愛関係と両者の文化の違いなどが繊細に描かれています。