唐突ですが…昨夜になって京大有志の会のブログにたどり着いてこれを読み、本当に胸が震えました…。
参院選を明日に控えた今日ではありますが、そして…
長らく更新していない拙いこのブログではありますが…京大有志の会をご紹介させていただこうと思います。
http://www.kyotounivfreedom.com/特に自民党改憲案と日本国憲法は長いので目も心も疲れてくるかとは思いますが、ご一読くだされば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします


子どもさんたちも読めるように書かれた声明文
はじめに…
わたしの『やめて』くにと くにの けんかを せんそうと いいます
せんそうは 「ぼくが ころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません
せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます
わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない
うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじゃない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじゃない
げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい
がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじゃない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじゃない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじゃない
じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じゃまするんだ
だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしは おおきなこえで 「やめて」 というんだ
じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい
途中からですが…
4.自民党改憲案と日本国憲法の前文
そこで、自民党改憲案がどのようになっているのかを、現行憲法と読み比べてみたいと思います。時間が限られていますから、是非とも御自分で精読して戴きたいのですが、私はここで主語と述語が、どのような係り結びになっているのかに注目してみていきます。
自民党改憲案
前文
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
(参考サイト:自民党憲法草案の条文解説)
自民党改憲案の第1段落で先ず確認しておくべきは、その主語が「日本国は」となっていることです。そして、「国民主権の下」、「三権分立に基づいて統治される」となっています。ただし、その国家の固有性として特記されているのは、「天皇を戴く国家」であることです。ここに「日本国」の元首や統治構造についての記述はありますが、「日本国民」がいかなる主体としてあるのかについては触れられていません。簡単に、この段落の主語と述語を押さえれば「日本国は、統治される」となります。
次の第2段落ですが、ここの主語も「我が国は」です。その「我が国」がいかなる国家なのかを説明する段落となっています。それによれば、「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」た国家であることが誇示されています。しかし、「先の大戦による荒廃」を引き起こしたのは、誰だったのでしょうか? また、その責任は誰がどのように取ったことによって、今日に至ったというのでしょうか? いや、そもそも「先の大戦による荒廃」に打ちのめされたのは、「我が国」だけだったのでしょうか? その災厄を東アジアや太平洋の人々にもたらした事実は、どのように認識され、いかにその責任を果たしてきたと主張したいのでしょうか? それらの欠かすことのできない論点が、みごとに欠落しているのは、憲法前文には国家の美点のみを記すべきだという思想が潜んでいるのでしょうか? そうした疑問が次々に湧き上がってきますが、それを抑えて読み進みますと「今や国際社会において重要な地位を占めて」いることが、文字通り「重要な」論点として示されています。もちろん、日本国憲法の前文にありました「平和主義」についても論及されており、「平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」と国家の目的が示されることになっています。ただ、この段落でも「日本国民」の姿は明示されてはいません。「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて」主体は当然に「日本国民」であるはずですが、「発展し」たのは「我が国」であるようにすり替わっています。
次の第3段落になって、やっと「日本国民」が主語として提示されます。そこで、日本国民はいかなることを行う主体として想定されているのでしょうか? 「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守」ることが第1に要請されます。ついで、ようやく「基本的人権を尊重する」ことになるのですが、細かなことを言えば、「基本的人権を尊重する」べき名宛て人は権力者であるはずですから、「日本国民」に「基本的人権を尊重する」ことを要請するのは、やや筋違いな感もあります。この箇所は、後に述べますように改憲案の9条の3の「領土等の保全等」と?がるものです。しかし、ともあれ自民党改憲案でも、国民主権と平和主義と基本的人権の尊重という、日本国憲法の基本的原則は踏襲されていると言えるのでしょう。そのうえで、「日本国民」に要請されているのは、「和を尊び、家族や社会が互いに助け合って国家を形成する。」ということです。要するに、第3段落の主語と述語を繋げて読めば、「日本国民は、国家を形成する。」ということになります。ここでも「基本的人権を尊重する」ことは、国民が国家を形成するための代償として与えられるものなのだろうか、という疑念が浮かんできます。「基本的人権を尊重する」は、それ自体として尊重されているのではなく、「基本的人権を尊重するとともに」とあるように、「国家を形成する」ことに資する次元においてだけ尊重されるのではないか、との疑問を感じるのです。
そして、第4段落では「我々は」が主語となっています。この「我々は」、権力者を指すのではなく、「日本国民」を指すものと理解すべきでしょうが、そこで要請されているのは、「自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」ことにあるとされます。私たち「日本国民」が、期待され、果たすべき役割とされているのは、個人としての生存する意義や目的ではなく、あくまでも国土を守ることであり、「教育や科学技術を振興」するのも個人としての成長や幸福追求の一環としてではなく、「活力ある経済活動を通じて、国を成長させる。」という一点に収斂していくというのです。これが自民党改憲案によって示された私たちが生まれ、生きていくための課題ということになります。どこかの企業のスローガンではありません。人々が国家というものに集う意義は、果たして経済成長だけに絞られるべきものなのでしょうか? ここでも少子高齢社会に入った日本が、どこまで経済成長だけを追求することができるのか、また本当にそれが可能なのか、むしろ成熟した社会としての持続性を保っていく方途を指し示すことが要求されているのではないのか、といった疑問がここでも溢れてきます。私たち、そして次代の人々が21世紀を展望し、その理念を託そうとする時、経済成長以外に指針のない国家にどれほどの魅力を感じたら良いのでしょうか?
そして、最後の第5段落では、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するために、ここに、この憲法を制定する。」と憲法制定権者としての位置づけが掲げられています。しかし、なぜ「日本国民」は「憲法を制定する」のでしょうか? 「伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため」と断定されています。
以上、簡単に自民党改憲草案における前文において示されている原理を読んでみましたが、既に皆さん、十分に御理解されたことと推測しますが、そこで一貫して説かれていることは「国民」がどのように国際社会の中で生きていくべきであり、どのような存在意義をもって生きていくのか、ではなく、いかに経済成長に寄与すべきなのか、あるいは国家に貢献すべきなのか、ということが主眼となっているということです。「長い歴史と固有の文化を持つ」国家が国民よりもアプリオリに存在し、国家の存続のために沿う限りで国民は存在を認められる、というのです。
それでは、これに対して現在の日本国憲法前文はどのような構成になっているでしょうか?
現行憲法
前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
(参考サイト:自民党憲法草案の条文解説)
日本国憲法前文は、4つの段落から成っていますが、第1、第2、第4の段落の主語は、「日本国民は」となっています。そして、第3段落では「われらは」となっていますが、これも明らかに「日本国民」という意味です。そこには、「日本国」や「我が国」といった国家を主語とする段落はありません。憲法の制定権者は「日本国民」であり、国民がその制定方針と内容を権力者に与えるというのが、立憲主義の原義であることからすれば、それは当然の構成というべきでしょう。
その立憲主義の下での、統治システムを国民主権に基づく代議制民主主義として説いたのが、第1段落であり、そこでは「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」することとし、「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恩沢を確保」することが確認されます。そして、権力者に対する最も重要な要求として、政府に戦争を起こさせないことを「国民の決意」として示しています。「日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、・・・この憲法を制定する。」というのが、ここでの主語と述語の結びつきを示すものです。立憲主義とは、国民が権力者や公務員に対して、何をしてはいけないかという縛りをかけるものであるという理解の上に、「政府の行為」によって戦争が起こらないようにと憲法制定権者の国民が政府=権力者に厳命しているのです。ここにこそ立憲主義と非戦の精神が鮮やかに示されています。
そして、第2段落では、非戦の精神の具体的な内容が明示されます。そこで「日本国民」が念願するのは、「恒久の平和」です。しかし、その平和は単に日本国民だけが平和であれば良いというのではありません。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と宣言しています。ここに「平和的生存権」という概念が提示されることになり、具体的な条文として9条から11条、12条、13条、25条そして97条へと展開していくとみることができると私は理解しています。
現行憲法
第二章 戦争の放棄
第9条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
現行憲法
第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
現行憲法
第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
現行憲法
第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
現行憲法
第97条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
(参考サイト:自民党憲法草案の条文解説)
このような国際協調の精神は、次の第3段落で明確に示されます。「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、・・・他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信じる。」ということです。憲法は、国内の統治システムや人権保障のあり方などを明示することが課題ですが、同時に国際社会においてどのようなスタンスを取り、どのような役割をもって人類に貢献していくのかを訴えかけることも課題としています。そのとき、「我々は、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」ことを国家目標と掲げることと、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」こととの間に、遙かな隔たりを感じてしまうのは、私だけでしょうか? もちろん、経済的に成長することや繁栄することを望ましい国家目標と考える国民も少なくはないでしょう。しかし、人類全体の未来を考えるとき、ある世代だけが経済成長のために希少な資源を消尽し、原子力発電のゴミを放置していくことに歯止めをかける必要はないのでしょうか?
憲法を考える際には、こうした人類史の文脈にも思いを馳せるべきではないかと私は思っています。
(5.自民党改憲案がめざす国家と国民のあり方に続く。
今日も幸せな一日を…