※2023年10月22日に作成
今回は、おじいちゃんが亡くなってから、私がお母さんと妹と一緒に、福岡県の小倉市にあるおじいちゃんの家に行った際のエッセイです。
おじいちゃんの死因は、交通事故です。自転車を漕いでいたら、高齢者が運転する車に跳ねられました。おじいちゃんは、ヘルメットをしていませんでした。
だけど事故に遭う数日前、おじいちゃんはどんなヘルメットを買おうか選んでいたそうです。もっと早く選んで買っていたら助かったのだろうかと思うと、涙が出てきました。
おじいちゃんの死は本当に衝撃的で、本来なら驚いたであろう谷村新司の死さえ、そのときの私にとっては取るに足らないものでした。
おじいちゃんが亡くなってから何日間かは、ふとしたときにいつも泣いていました。日中の忙しいときは忘れられるのですが、家から学校まで自転車を漕いでるときとか、お風呂に入ってるときとか、夜寝る前とか、おじいちゃんが生きていた頃を思い出しては泣きました。
とにかく心の中がグチャグチャでまとまらず、すぐ文章にすることができませんでした。でも、おじいちゃんを忘れないために、書かなければいけませんでした。
なんでお母さんと妹が先に小倉に来ているのかとか、なんで私だけ喪服じゃなくて高校の制服なのか、とかについては、以下の2つの記事をご参照ください↓
はじめに、私たち家族のことについて説明する。
おじいちゃんは、おばあちゃんと叔母さんと3人暮らしをしていた。叔母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんの長女だ。結婚をせずに、ずっと両親と暮らして働いている。
私にとっての叔父さん(おじいちゃんとおばあちゃんの長男で、叔母さんとお母さんの兄)は、結婚して家を出て、香川県で、奥さんのルミさんと暮らしている。
私にとってのお母さん(おじいちゃんとおばあちゃんの次女で、叔父さんと叔母さんの妹)は、結婚して家を出て、東京都で私たちと暮らしている。
10月16日。駅を出ると、叔母さんが車で待ってくれていた。そのまま叔母さんは家には行かず、典礼会館という場所に向かった。そこでお坊さんがまだお経を読んでいた。火葬には間に合わなかったけれど、これには参加することができた。
お母さんと妹の間の椅子に座って、お母さんから数珠を受け取った。前には、おばあちゃん・叔父さん・セツさん(おばあちゃんの弟の奥さん)・ルミさんが座っている。
お坊さんが淡々とお経を読んでいる間、頭の中にはずっと、ちあきなおみの『喝采』が流れていた。なんで今このBGMなんだよ、勘弁してくれよ、と思いながら、私は泣けそうで泣けなかった。
私が高校の制服を着ている中、親族はみんな喪服を着て、前にある祭壇を見つめている。祭壇の中央にはおじいちゃんの写真があって、その周りを色とりどりの花が囲んでいた。
ニュースやドラマでよく見る光景。だけど、あそこにおじいちゃんがいるのはおかしいと思った。
よく分からない。だって、私が見たおじいちゃんはいつも生きていた。寝ててもちゃんとあったかくて、ちゃんとイビキをかいていた。それが、心臓が止まっただけでもう生きてないなんて、どう考えても信じられない。納得できない。どう考えてもおかしい。おじいちゃんはまだ生きている、きっとどっかの海に行って、大好きな魚釣りでもしてるんだ…。
だけどお母さんと妹と叔母さんは泣いていた。それで私もいよいよ認めざるを得なくなった。お経の途中で、おじいちゃんがいつものように手を後ろで組んで、ガニ股で出てこないだろうか、とまだ未練がましく期待をしたが、とうとう出てはこなかった。そして、おじいちゃんに線香をあげる時間になった。
まずはおばあちゃんがあげ、次に叔父さん、セツさん、ルミさん、妹…。いよいよ私の番が来た。私があげれば、あとはお母さんと叔母さんがあげて、終わりだ。
おじいちゃんの前へと歩いていく。足が震える。さっきは遠くてよく見えなかったけど、こうして写真に近づくと、すごくいい顔で微笑んでいる。やっと実感が湧いたのか、涙が出てきた。鼻水が出る前に線香をあげ、さっと砂の中に置いた。煙たい匂いがした。
ああ、この匂いは知っている。人が死んだあとの匂いだ。ひいおじいちゃんや、ひいおばあちゃんに線香をあげたことがあるから知っている。でもそのときは、全然人が死んだなんて思ってなかった。ひいおじいちゃんも、ひいおばあちゃんも、私が産まれるずうっと前に亡くなったから。
でもこのときは違った。私が昔から知っているおじいちゃんが亡くなったのだ。やっぱり亡くなったのだ。否定をしても亡くなったのだ。もう、ここにはいない。
線香をあげたあとも、お坊さんの話を聞き続けた。お坊さんは「亡くなっても、その人に会えなくなるわけではありません」なんて言っていたけど、嘘だ、嘘だ。そんなの嘘だ。何を言ってもおじいちゃんはもう居ないんだ。居ない人には会えるわけがない。魂で会えるとか、そんなの知らない。肉体がなくて、手が繋げなくて、話もできないなんて、それで「いつでも会える」なんて言われても、誰が納得なんかするもんか。納得なんかしてやるか。おじいちゃんはもう居ないんだよ。赤の他人のお坊さんに、何が分かるんだよ。
そのあと違う部屋で、みんなで美味しいお弁当を食べた。おばあちゃんに「会いたかった」と抱きしめられて、また泣きそうになってしまった。
お弁当を食べたあと、ぼーっとしていた私たちは、おじいちゃんの写真とお骨を忘れて外に出ようとしてしまった。お母さんが気づいて、みんなで急いで戻って、泣き笑いでおじいちゃんを連れて帰った。
典礼会館の方たちは、みんなほんとに良くしてくれた。実際、親族のみんなや典礼会館の方たちといるときはとても楽しくて、おじいちゃんが亡くなっているということを忘れていた。だけど外に出るとまた思い出して、やっぱり信じられない気持ちのまま、暗い暗い空を見上げた。
そのあと、みんなで家に向かった。おじいちゃんの家に入ったとき、すごく苦しくて涙が出た。おじいちゃんの家の匂いがするのに、おじいちゃんがいない。おじいちゃんの釣り具も眼鏡もあるのに、おじいちゃんがいない。
おじいちゃんの声かと思ったら、叔父さんの声だった。おじいちゃんがテレビを観ていると思ったら、叔父さんが観ていた。
ここにおじいちゃんが居ないのはおかしいと思った。いつだって笑顔で「お帰り」って言ってくれたのに。
その日は夜遅くまで、親族みんなで思い出話に花を咲かせた。おじいちゃんの破天荒なエピソードや面白エピソードは尽きない。お母さんは小さい子供のように笑い転げていて、ああ、この人はこの家族の末っ子なんだなあと思った。
お母さんは「あーもう、可笑しすぎて別の意味で涙が出るわ。お葬式で悲しくて泣いたあとに…」と言っていた。笑ってるお母さんは本当に幸せそうで、こうして誰かを2度泣かせるのが、亡くなった人の最期の勤めだよなあ、なんて考えた。
それにしても、おじいちゃんの話は本当に可笑しい。いつか彼のエピソードの数々を皆さんにも捧げたいと思っているが、それはまた別の機会に。
10月17日。叔父さんとルミさんが香川に帰ってしまった。そのあとは、おばあちゃんや叔母さんと一緒に、ひたすらダラダラして過ごした。2人と一緒に過ごせる時間だって、いつまであるか分からないから。
それから、大好きなバンドoasisの記事をたくさん書いた。そして夜はガッツリ勉強して、その日は眠りについた。
10月18日。今日は東京へ帰る日だ。駅に向かう前に、少しおばあちゃんと話した。おばあちゃんはこう言った。
「おじいちゃんねえ、「まどかはなかなか来られんねえ」って言いよったよ」
そして、おばあちゃんは切なそうに笑った。私は泣きそうなのをこらえるために「そうかあ。ハハハハ」と、わざとらしく笑った。
そうなのだ。私は何度かおじいちゃんの家へ行こうとしたが、受験やらコロナやらでいつまで経っても行けず、とうとう亡くなってしまったのだ。
お母さんと妹は、今年の8月、つまりおじいちゃんが事故に遭って意識不明になる1ヶ月ほど前に、おじいちゃんの家に遊びに行った。ところが私は受験準備のために、お父さんと一緒に家に残ったのだ。時期を考えれば仕方がないが、それでもやはり悲しい。
おじいちゃんと最後に会ったのは…中2のときだろうか? 一緒に美味しいお好み焼き食べに行ったっけ。またあのお店に一緒に行きたい、と思ってたんだけどなあ。
東京行きの新幹線の中で、3時間くらいずっと涙が流れっぱなしだった。泣きすぎて、もともと細かった目が腫れてさらに細くなってしまった。おばあちゃんや叔母さんも亡くなったらどうしようと思ったのだ。
小さい頃、笑顔で手を振ってお見送りをしてくれるおじいちゃんとおばあちゃんと叔母さんを狭い窓から見て、大泣きしていたことを思い出す。中学生くらいから、いつの間にか泣かずに笑顔で手を振ることができるようになった。
だけどその日、私は小さいあの頃のように大泣きした。さすがに昔みたいに大声をあげて泣いたりはしなかったけど、同じくらいの涙を流した。
だって、あそこにおじいちゃんが居ないんだもの。おばあちゃんと叔母さんしか居ないんだもの。やっぱりこんなの、おかしいよねえ…。
新幹線の中で、私はほとんどヤケになって、普段はあんまり食べないグミを爆食いした。それしか気を紛らわす術がなかったのだ。文章もロクに書けやしなかった。心の中がグチャグチャだったのだ。ボロボロ涙をこぼしながら、ひたすらグミを食べ続ける高校生の姿は、ハタから見れば恐怖だっただろう。
志村けんに似ている、二枚目なおじいちゃん。頭はツルツルで、触るとちょっとベタベタした。冬でもタンクトップを着ていた元気な人だった。豪快に笑う人だった。家にいるときはいつもソファに寝転がってテレビを観ていて、外に出るときはいつもお気に入りの帽子をかぶっていた。
車を運転するときは、おばあちゃんがまだ助手席のドアを閉めていないのに走り出す。ほんとにせっかちな人だった。
それから、お酒と釣りと野球観戦が大好きな人だった。おじいちゃんが釣ってきてくれた魚は、いつもとても美味しかった。小さい頃は、おじいちゃんが持ってるソフトバンク応援用のメガホンを口に当てたりした。おじいちゃんは、福岡ソフトバンクホークスの大ファンなのだ。私がそのメガホンを持つと、おじいちゃんは嬉しそうだった。
若い頃は破天荒な人で、お母さんいわく「いつまでも少年みたいな人やったねえ」。叔母さんいわく「結婚した世界線の寅さん」。家族をほったらかしたまま、1人で色んなところを遊び歩いては散財していた。家ではすぐに子供たちを殴るので、お母さんは小さい頃、おじいちゃんのことが嫌いだったとか。
おばあちゃんはだいぶ苦労したらしい。でも私たち孫が産まれたら、たちまち丸くなったらしい笑
私の知ってるおじいちゃんも、私の知らない若き日のおじいちゃんも、大好き。
あーあ。夢の中で、おじいちゃんは目を覚まして笑ってくれたのに。とうとう本当にはそれをしてくれなかったね。
でもいいよ、もういいよ。ゆっくりしてね、おじいちゃん。破天荒でせっかちな人だったんだから、亡くなってからじゃないとノンビリできないよね笑